ダイバーシティ&インクルージョンに欠かせない世代

 一般的に、高校までの教育と大学での教育の大きな違いは、学習者の自由度が高くなる点にある。履修計画を自分で立て、サークルやアルバイトといった課外活動の選択幅も大きく増えるなど、所属するコミュニティを自分で選んだり、つくったりしなければならない。大学のこのような環境は、自分が何者であるのかということに向き合う青年期にふさわしい。自ら律して学びに向かい、試行錯誤しながら自分の生き方を探ることができる。

 自由度が高いということは、怠けていても叱ってくれる人がいないということでもある。そうなると、「駄目な自分」に直面する機会も増える。通常であれば、学生を取り巻くコミュニティでお互いに励まし合ったり、憧れの先輩に導かれながら「駄目な自分」と折り合いをつけたりする。自由度の高い環境で自分と向き合う経験も、自律的な「おとな」に成長していく大切な過程であり、大学での学びの重要な側面といってもいいかもしれない。

 コロナ禍は、学生たちが「駄目な自分」と向き合う時間を引き延ばし、仲間たちと励まし合ったり、「駄目な自分」と折り合いをつけたりする経験の機会を学生たちから奪った。オンライン授業や「ソーシャルディスタンス」は、活動や他者との交流への欲求を抑圧し、自律的に活動を選んだり、親密な関係をつくったりする機会を学生たちから奪った。

 学生たちの多くは、一人でいる時間を嫌というほど味わった。部屋に閉じこもる生活によって、対人関係の煩わしさから解放され、小さくなった親密な関係の輪の中で、自分を中心とした世界をつくることができた。ある意味、その小さな世界は気楽で平穏だったはずだ。

 しかしその反面、親密な世界の外側の世界との距離が広がり、自分と社会とのつながりが見えにくくなった。そうした状況の中で、自分の社会的な存在価値を見出せないことに苦しむ若者がたくさんいたのではないだろうか。だから、自分と社会のつながりを確認させてくれる他者との出会いが救いにもなった。

 そしていま、大学の活動は正常に戻りつつある。学生たちには、これまで制約されてきた経験を存分に取り戻してほしいと思う。そのために、さまざまな他者と出会い、“社会的な存在としての自分”を感じる機会を探し回ってほしい。

 同時に、自分のことについてじっくり考える時間を持てたことは、コロナ禍に大学生活を過ごした世代の強みになるかもしれない。孤独を味わい、切なくなるほど他者を希求した経験は、弱さにも強さにもなりえると思う。もともと、他者に寄り添う力を持っている人の多い世代でもある。コロナ禍の生きづらかった経験が、生きづらい状況にある他者に対する共感力を高めたのなら、ダイバーシティ&インクルージョンの社会に欠かせない世代となるかもしれない。

 孤独に自分と向き合った大学生活を過ごした世代があることを、社会は記憶にとどめておく必要があるだろう。この世代を迎えるおとなたちは、体験の機会が乏しかった世代として配慮しながら、この世代ならではの潜在力を引き出すための準備をしたい。

挿画/ソノダナオミ