「何をしてもダメ」でも自分であり続ける

 これは、どうやってもダメだと理不尽にきめつけているわけじゃない。師の意を体した受け身の対応をするのではなく、師に逆らうくらいの主体的・創造的な気概でかかってこいといっている。

 臨済は徳山の問われざる問いに答えるには、おのれの主体性をいかに示すかが大事になる、とわきまえていて、アドバイスする。徳山の突きだしてくる棒、つまり徳山の主体性をしっかり受けとめ、それを押しもどす、つまり自分の主体性を徳山の主体性とむきあわせる、そういうやりかたでゆけ、と。

 楽普はその通りにする。受けとめ、それを押しもどすというのがミソ。ただ打たれるままにしないで、押しもどす主体性を示してみせる。

 徳山はスタコラさっさと居間に帰ってゆく。それが正解だとはいわないで、「そうか」と帰ってしまうあたり、じつに水際立っている。

 徳山は、楽普のやりかたをみて「おお、わしの問いを見事に受けとめおった。しかも自分の主体性をちゃんと言葉を超えた行動で示しおった」と感心した。感心はしたものの、そのやりかたが、はたして本人のものかどうか、いささか不安をおぼえた。疑いをいだきつつ、ひとまず居間にひきあげる。

おまえ自身はどうか

 楽普の報告をきいて、臨済は「あいつは只者ではないとおもっていたよ」と徳山の力量をみとめる。

「ところで、おまえは徳山のことをちゃんとみてきたか? さっさと居間に帰ってゆく行為にあらわれた徳山の境地をみぬいたか?」とあらためて楽普にたずねる。

 楽普は、徳山がなぜ居間にひきあげたのか、まるでピンときていない。どう答えてよいやら、まったくお手上げ。いいつけられたことをやっただけ。自分はどうしたいのかという意志がない。

 棒を受けとめ、押しもどすのは、相手にたいする自己のありかたを身体的・行為的に表現することだ。自分と徳山とのあいだに、そういうギリギリの主体性のやりとりがあったことに、楽普はまるっきり気づいていない。

「みろ、これがオレだ」とみずから身体的・行為的に表現しなければならない。臨済は楽普にそれをやらせた。

 徳山はそれを受けとって居間にもどる。おまえさんの自己をみたよ、と。臨済は「徳山はおまえをみた。で、おまえは徳山をみたのか?」と楽普にたずねる。

 楽普はヘドモドするばかり。なんだ、ちっともみてないじゃん、とピシャリ。臨済は「これがおまえの受けるべき三十棒だ」と徳山の代わりに打つ。

どうすれば、主体性を表現できただろうか

 楽普にもうちょっと甲斐性があったら、徳山にどんなふうに応対しただろうか。

 いえると三十棒をくらう。いえないと三十棒をくらう。「いえる」か「いえない」かしか選択肢がないとすれば(じっさいないとおもうが)、どうやっても三十棒をのがれられない。だとすれば、その棒を徳山の手からうばいとるしかない。

 棒を受けとめ、押しもどす、という臨済のやりかたもよい。けれども、棒をうばいとって、それで徳山を打ったら、なにが起こっただろうか。

(本稿は、山田史生著『クセになる禅問答』を再構成したものです)

山田史生(やまだ・ふみお)

中国思想研究者/弘前大学教育学部教授

1959年、福井県生まれ。東北大学文学部卒業。同大学大学院修了。博士(文学)。専門は中国古典の思想、哲学。趣味は囲碁。特技は尺八。妻がひとり。娘がひとり。
著書に『日曜日に読む「荘子」』『下から目線で読む「孫子」』(以上、ちくま新書)、『受験生のための一夜漬け漢文教室』(ちくまプリマー新書)、『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)、『中国古典「名言 200」』(三笠書房)、『脱世間のすすめ 漢文に学ぶもう少し楽に生きるヒント』(祥伝社)、『もしも老子に出会ったら』『絶望しそうになったら道元を読め!』『はじめての「禅問答」』(以上、光文社新書)、『全訳論語』『禅問答100撰』(以上、東京堂出版)、『〓居士の語録 さあこい!禅問答』(東方書店)など。