「禅問答にわかりやすい答えはない。だからおもしろい」。そう語るのは、弘前大学教育学部教授の山田史生氏だ。いまやグローバルなものとなった禅のもつ魅力を、もっとも見事にあらわした大古典、『臨済録』をわかりやすく解説した『クセになる禅問答』が3月7日に刊行される。この本は「答えのない」禅問答によって、頭で考えるだけでは手に入らない、飛躍的な発想力を磨けるこれまでにない一冊になっている。今回は、本書の刊行にあたり、著者に「部下との接し方に効く禅問答」について教えてもらった。

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悩める僧の問い(『玄沙広録』より)

僧が問う「どういうものが玄沙和尚の主人公でしょうか」
玄沙がいう「そなたが主人で、わしは客人だ
「どうしてそうなるのですか」
「いったいなにを問うているんだ」

部下からの質問にどう答えるべきか

 すこぶる鼻っ柱の強い、おそらくは若い僧侶がやってくる。のこのこ近づいてきたかとおもうと、しずかに坐禅をしている玄沙へ、「どういうものが玄沙和尚の主人公でしょうか」と、はなはだ不躾な問いをぶつける。そんなふうにぼけっと坐っていて、肝心の和尚さんの主体性はどうなっているのですか、と。

 もちろんアポなどとっていない。ベテランの僧にむかって、怖いもの知らずで正面からぶつかっている。
 問いたいひとに、問いたいことを、無鉄砲に問う。それは若者の特権だ。
 ひどく青臭い問いかけを、玄沙はしっかりと真っ向から受けとめる。そして「問うているそなたが主人で、問われたわしは客人だ」と答えてやる。

 これは想像でいうのだが、若い雲水が生意気に突っかかってきたことが、玄沙にはうれしかったんだとおもう。年寄りという生きものは、若者に突っかかってもらえてナンボである。むやみに敬遠されるようになったら、いよいよリタイアが近い。

誰にでも敬意を

 定年間近の老教師のいつわりのない本音を、すこしだけ書かせてもらう。
 教員になって36年、いちばん学んだことはなにかといえば、それは学生との接しかたである。教員と学生とのあいだには、けっして上と下という関係性はない。はなから役割がちがうのである。
 役割のちがう相手には、敬意をはらう。当然のことだ。

 ぼくが熟知することにかんして、学生はもちろん無知だ。そんなのは当たり前であって、なんら恥じるにはあたらない。無知であることを潔しとせず、みずから学ぼうとする若者を、ぼくはリスペクトする。
 学校のみならず、会社もおなじだろう。
 愚かな上司が部下にもとめるのは、「無意味なタスクを課せられても文句をいわないこと」「査定に基づいた資源の分配がフェアだと信じること」、要するに「上のものに逆らわないこと」だったりする。そういう社員ばかりになると、たしかに管理コストは削減できるだろうが、その会社はほろびる。