「禅問答にわかりやすい答えはない。だからおもしろい」。そう語るのは、弘前大学教育学部教授の山田史生氏だ。いまやグローバルなものとなった禅のもつ魅力を、もっとも見事にあらわした大古典、『臨済録』をわかりやすく解説した『クセになる禅問答』が3月7日に刊行される。この本は「答えのない」禅問答によって、頭で考えるだけでは手に入らない、飛躍的な発想力を磨けるこれまでにない一冊になっている。今回は、本書の刊行にあたり、その一部を特別に公開する。
いえてもダメ、いえなくてもダメ
臨済は、徳山(とくざん)和尚が大衆をみちびくさい「ピタリといえても三十棒をくらわすし、いえなくても三十棒をくらわす」といっているときく。
侍者の楽普(らくほ)に「どうしてピタリといえても三十棒なのかとたずねよ。そして奴さんが打ってきたら、その棒を受けとめ、グイと押しもどし、奴さんがどうするかをみてこい」と命ずる。
楽普は徳山のもとにゆき、教えられたようにたずねる。
はたして徳山は打ってくる。
楽普はその棒を受けとめ、グイと押しもどす。
徳山はさっと居間のほうへ帰ってしまう。
楽普がもどってきて事の次第を報告する。
「わしは以前からあいつは只者(ただもの)ではないとにらんでおった。ところで、そなたは徳山和尚のことをちゃんとみてとってきたか」
楽普はなにかいおうとする。
臨済はすかさず打つ。
ニッチもサッチもゆかない
なにか「いえ」と命ぜられ、なにかいうとピシャリと打たれる。「いえ」といわれても無視すると、やはりピシャリと打たれる。ダブルバインドからのがれられず、進退きわまってしまう。
真理について、言葉でいえば真理をそこなう。言葉でいわなければ真理からはなれる。
真理はそもそも言葉で他人に伝えられるものではない。おのおの体得するよりほかない。言葉でいえるかどうかは、ひとまず真理とは関係がない。
どうして関係のないことに拘泥するんだ、と三十棒をくらわす。
「いえても」「いえなくても」というのだから、ここはひとつ発想を逆転させて、はなから一言もいわなければどうだろう。言葉にしようとするから三十棒をくらってしまう。
ところが、ダンマリをきめこもうとしても、おそらく徳山はゆるしてくれない。「なにかいえ」と迫ってくるにちがいない。
受けとめ、押しもどす
臨済は楽普に命ずる。「徳山が打ってきたら、その棒を受けとめ、グイと押しもどせ」。
楽普はそれを実行する。すると徳山は、ただちに居間のほうに帰ってしまう。楽普はしょせんお使いでしかない。主体性がなんにもない。そんなやつの相手はできん、とひっこんだ。
徳山の相手をどうしようもない窮地に追いこみ、「さあどうする」と迫るというのは、禅における常套のやりかただ。
なにかしら問いがあり、それにたいする答えがある。それが尋常の問答である。ところが徳山は、あらかじめ「いえても三十棒、いえなくても三十棒だぞ」と釘を刺す。
じゃあ徳山は、なんにも問うていないのか? そんなことはない。いまさら問うまでもなく、すでに問われている。もっとも大切な一句はなにか、それをいってみよ、と。