自分はどうなのか

 臨済は、座主を叱りつけた楽普にむかって「そういう自分はどうなんだ」とたずねる。「一切経を理解することよりも、もっと大切なものに気づいているのか?」と問いただす。

 楽普は大声でどなりつける。これは「仏性はこうやってはたらかせるのだ」と実践してみせたのだろう。なかなかの気合いだ。
 たしかに臨済と座主とのやりとりは教理をめぐっての議論である。無益な言葉のやりとりに堕しているかのようにみえる。それにひきかえ楽普が大声でどなったことは、仏性のはたらきの発露といえなくもない。

 けれども、その一喝は、臨済にむけてのものなのか、座主にむけてのものなのか、いまひとつハッキリしない上滑りなものだった。的を射ていない一喝は、しょせん空砲でしかない。

「学ぶ」よりも大切なこと

 臨済はいったん座主を見送りにゆき、もどってくると「さっきはわしをどなったのか」と、やんわり問う。
 楽普は「そうです。和尚、あなたをどなったのです」と自信タップリ。臨済の誘いにまんまとひっかかる。「臨済と、座主と、ふたりともにどなったのです」とでもいえば、まだしも相対的な分別をまぬかれたかもしれないが、まともに食ってかかる。

 臨済はしたたか打ちすえる。こいつめ、と。
 楽普が打たれたのは、座主の真意をわかっていないことが原因である。
臨済は「一切経を読むよりも、もっと大切なことがあると座主は教えてくれたのだ。そんなこともわからんのか。この臨済にでもなく、あの座主にでもなく、そなた自身にむかって一喝するがよい」と楽普を打つ。

(本稿は、山田史生著『クセになる禅問答』を再構成したものです)

山田史生(やまだ・ふみお)

中国思想研究者/弘前大学教育学部教授

1959年、福井県生まれ。東北大学文学部卒業。同大学大学院修了。博士(文学)。専門は中国古典の思想、哲学。趣味は囲碁。特技は尺八。妻がひとり。娘がひとり。
著書に『日曜日に読む「荘子」』『下から目線で読む「孫子」』(以上、ちくま新書)、『受験生のための一夜漬け漢文教室』(ちくまプリマー新書)、『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)、『中国古典「名言 200」』(三笠書房)、『脱世間のすすめ 漢文に学ぶもう少し楽に生きるヒント』(祥伝社)、『もしも老子に出会ったら』『絶望しそうになったら道元を読め!』『はじめての「禅問答」』(以上、光文社新書)、『全訳論語』『禅問答100撰』(以上、東京堂出版)、『龐居士の語録 さあこい!禅問答』(東方書店)など。