個々人がそれぞれの幸福を追求できる社会とは?

 翻って、大学の卒業生に贈る言葉はどうだろうか。20年以上にわたって卒業生を送り出し続けていると、さまざまなことに苦しみながら生をつないでいる卒業生や在学生と出会ってきた。もちろん、相応の就職先などで活躍し、幸福な生活を手に入れている卒業生も多いはずだ。しかし、幸か不幸か、そのような卒業生からの音信はほぼない。「便りがないのはよい便り」である。

 卒業後の職場での人間関係や過労などによって、適応障害に陥る卒業生は少なくない。中には精神疾患のために通常の生活を営むことができなくなった卒業生もいる。離職と転職を繰り返して、卒業後10年以上も落ち着いた生活を手に入れることができない卒業生もいる。出産した子どもに障がいがあることで、連絡を再び取り合うようになった卒業生もいるし、母子家庭になって苦労して生を営んでいる卒業生もいる。

 そうかと思うと、在学中はリストカットやオーバードーズを繰り返して、心配の絶えなかった卒業生が、就職先にうまく適応でき、日々なんとかやっているという連絡を受けると、心の底からホッとする。発達障がいのために、在学中は人間関係や授業の履修に苦労をしていた卒業生が、自信をもって仕事をしている様子を聞いたりすると、とても嬉しい気持ちになる。手のかかった学生ほど愛着が生じるのは、教師の定めのようなものなのだろう。さまざまな生き方をしている卒業生たちの消息を聞くにつれ、よい人や環境と出会って、「あれこれあっても、まずは幸福な人生を歩んでほしい」という思いが募る。

 そう考えると、大学の卒業生も、特別支援学校の卒業生も、結局のところ同じなのではないかと思えてくる。個々の卒業生が前向きに歩んでいくことが大切であると同時に、さまざまな境遇に置かれた個々人がそれぞれの幸福を追求できる社会にしていかなければならない、ということである。

 かつて私は、よりよい社会づくりに貢献することで、社会から認められ、自信をもって人生を歩んでいくイメージを卒業生たちに投影していた。幸福とはそうやって手に入れるものだと考えていた。しかし、さまざまな境遇に置かれている人たちと出会う中で、そういった単線的なストーリーは現実にそぐわないと感じるようになった。新たに得たイメージは、もっと複雑なストーリーである。すべての人が幸福を追求できる環境をめざす社会をつくり、そうした社会の営みにすべての人が参加できる状況をつくる、といったようなストーリーである。

 卒業生たちに贈る言葉を考えるのが難しいのは、単線的なわかりやすいストーリーに嘘っぽさを感じてしまうようになったからだろう。

 ちょうど先日、今年度最後の授業で、仲間の教員と「共に生きるための学び」をテーマにした対談を行った。相手の教員も私自身も、学校時代にいじめ被害を経験していたことから話が展開した。私は「いじめを受けるのは恥ずかしいことで、自分が悪いのだ」と思って、誰にも言わずに耐えていたことを述べた。相手の教員は、いじめ加害者を「アホか」と一蹴し、担任の先生を味方に引き入れたと語った。もちろん、いじめ被害に力強く対抗できるに越したことはない。しかし、そのようにできるためには前提となる条件がある。少なくとも被害者が、いじめは被害者が悪いのではなく、加害者が悪いのだということを知っていなければならない。その教員は、「私の場合、いじめや差別とたたかう学校から転校していったから、そういう行動をとることができたんだと思います」と語っていた。授業を受講していた学生たちは、子ども時代にいじめ被害を経験していたという大学教員の告白に、思わず前のめりになって聞き入ったようだ。

 人は逆境に立たされた時、その逆境とたたかうことを余儀なくされる。たたかうための力は、周囲の人たちや育ってきた歴史の中から引き出される。たたかう力になるような環境がなければ、人は逆境にひれ伏すしかない。だから、すべての人が力を発揮できる環境をつくる地道な努力をしていくことが大切なのだ。