「エンパワメント」「当事者性」という言葉が持つ価値

 先ほど、「エンパワメント」という言葉を紹介した。奪われた力を取り戻していくのは、本人だけの努力に委ねられるものではない。本人が奪われた力を取り戻すことができるように、周囲の環境を変えていくことも含めて「エンパワメント」なのだ。

 私たちの教育ユニットでは、「社会エンパワメント」という言葉を使っている。奪われた力を個々人が取り戻すために、社会が変化していかなければならないのだが、そのような変化を生み出すための実践力を高める教育ユニットである。学生たちは、まちづくりの実践に関わったり、ジェンダーをめぐって対話イベントを開催したり、持続可能な社会づくりの多様な実践を盛り上げたりなど、いくつもの社会的実践に誘われ、悩みながら学ぶという設計である。

 この教育ユニットをつくり上げる過程で、教員間で比重を高めてきたのが「当事者性」という言葉である。意味がまだ確立されたわけではないが、「当事者性」は、取り組もうとしている社会的課題と自分自身との距離を示す言葉である。学生たちは、社会的課題を解決しようとする実践に出合うことで、その課題に自分が関わることの意味を考え始め、自分自身の抱えている課題にも意識が向くようになる。そのような過程があることで、学生たちは社会的課題に自分自身を重ね合わせ、さまざまな活動に主体的に参加できるようになっていく。

 例えば、私たちのプロジェクトで、「障がい児の放課後の時間を充実させるための活動づくり」にのめり込んでいったある学生は、障がい児と時間を共有する中で、病弱だった自分の子ども時代のことを繰り返し思い起こしていた。病弱でやりたいことが制限されていた自分の経験と、障がい児の置かれている状況とがリンクし、「なぜ、自分が障がい児に関わるのか」という説明が自分の中で固まっていった。こうした過程を経て、学生たちの「当事者性」が高まっていく。この学生は卒業した後、現在でも障がい児との関わりを仕事にして生活している。「当事者性」を深めたことが、この卒業生の人生の指針をつくったのだと思う。社会をよりよいものにしていこうとする実践を、自分事として地道に進めている清々しさに、私は感動を覚える。

 ダイバーシティ&インクルージョンをめざす社会にも、「エンパワメント」と「当事者性」という言葉が示唆的であるはずだ。奪われていた力を取り戻していく人たちをサポートする社会でなければ、ダイバーシティ&インクルージョンには向かわない。また、ダイバーシティ&インクルージョンの社会は、社会のメンバーそれぞれが抱えている課題を脇に置いてめざされるものでもない。

 さて、今年の卒業生の中にも、企業に就職する学生がいる。この卒業生たちも、学生時代には自分が何者であるのかを問うことに集中して「当事者性」を深めることができたに違いない。けれども、企業で仕事を始めれば、自分事はプライベートの領域に囲い込まなければならない状況が増え、その代わりに、職場では洪水のような多くの課題に身をさらすことになるに違いない。それでも時折、自分自身が抱えている課題に意識を向け、仕事として取り組んでいる課題とリンクさせる機会があるとよい。そうすれば、自分事として主体的に仕事に向かうことができるようになるかもしれないし、自分自身を大切に考えられるようになるかもしれない。「当事者性」を深める機会が、「エンパワメント」を生み出していく。従業員に対して「当事者性」を深める機会を提供することは、ダイバーシティ&インクルージョンの社会にふさわしい企業のあり方なのではないだろうか。

挿画/ソノダナオミ