例えば、学校には悪しき平等主義があります。それは、生徒全員をできるだけ同じに見ようとする思想です。同じに見ることで生徒間の公平性を担保できると信じている先生たちがいるんですね。クラス全員に同じ宿題を出すのも、「がんばれば誰でも成果は出る」と皆に檄を飛ばすのも、「スタートラインはみんな同じ」という考えに基づいているわけです。実際のところは、そのほうが相対的な評価をつける管理者(先生)にとって都合がいいからそうしているだけだと思うのですが、公平性という言い訳があるから、それがさも正しいことのようにまかり通っているんです。

 でも、これは端的に言って間違いです。しかも、敗者(勉強ができない人、貧困な人など)は努力が足りないから敗者なのだという偏った見方(いわゆる自己責任論)を招きかねない悪質な嘘です。実際には、それぞれ向き不向きがあるし、習得するのにかかる手間も時間も人によって違います。さらに、「生まれ」という偶然性が、努力以前にその人の人生をいかに左右するかということは、いまや「親ガチャ」という一言で言い表されるほど周知のことになっています。

 そんな時代に生きているみんなは、偶然性を「ワンチャン」の一言でみずからの味方に変え、それと戯れることで大人の設定を揺さぶり、嘘を暴いてしまいます。「誰でもがんばれば成果が出る」よりも「オレでもワンチャンいけるんじゃね」のほうが、リアリティがあるし希望もある。大人の嘘よりずっと響きがよくて、頼もしい感じがします。

 でも、人って他人の嘘には敏感だけど、自分の嘘、つまり自分がデフォルトで設定した嘘には簡単に騙されるって知ってましたか?大人は自分の嘘にすっかり気づかなくなっているけど、それはみんなも同じで、「ワンチャン」にもすでに嘘が混じり始めてるからそれに気づかないと取り返しがつかないことになるかもしれません。

「アタリがあるはず」という
ワンチャンの幻想

 ワンチャンのマズいところは、デフォルトでガチャ的発想を含んでしまっているところです。みんなはゲームの中で、アタリのあるガチャに慣れてるかもしれないけど、ガチャって実は中身が入ってなくても、つまりすべてが外れでも成立するんです。要するに、ガチャの本質はすべてがハズレかもしれないという可能性を隠蔽できること、きっとアタリがあるだろうという幻想に浸れることなんです。偶然性という装置に対して恣意的に希望という色を加えているんですね。