【どうする家康】嫡男・信康は切腹、家康は「残る子たち」をどう扱ったのか?徳川家康像 Photo:PIXTA

「どうする家康」で描かれた
瀬名と信康への処断の経緯

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、家康が妻の瀬名(築山殿)と嫡男の信康を殺した事件をどう扱うかが注目の的だった。

 従来の通説では、信康夫人の五徳が、嫉妬から父である信長に手紙を書いて、信康らの非道や武田への裏切りをでっち上げて知らせたので、信長の命令で家康はしぶしぶ従ったとされていた。

 一方、最近では、家康と信康の対立は実際にあって、家康が信長の許可を取って処断したというのが有力になりつつある。

 そんななかで、瀬名を無理矢理に家康と相思相愛のヒロインにした大河ドラマがどう描くか注目された。だが、その描き方には、筆者も驚いた。

 瀬名は武田・上杉・北条を巻き込んだ東国同盟を結ぶことを企て、家康もそれ乗りかかった。ところが、武田勝頼が裏切り、信長に知らせて織田・徳川の離間を謀ったので瀬名と信康は死に、そして五徳は信長に「企ては瀬名と信康の独断だ」と説明し、徳川家を守るという、いささかアクロバティックな処理をした。

 いずれにしても、6月5日の記事にも書いた通り、家康は天下を取った後でも、瀬名や信康との家族関係の構築に失敗したことは後悔していたが、処断を悔やんでいた様子はまったくない。

 こうして、信康を排除した家康は、三男で西郷局(ドラマではお愛)との子で、信康の死の直前に生まれた秀忠を嫡男として位置付けていった。