二俣城跡(静岡県浜松市天竜区二俣町)二俣城跡(静岡県浜松市天竜区二俣町) Photo:PIXTA

家康が嫡男・信康に切腹を命じた
「信康事件」の通説は正しいのか

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、前半のクライマックスともいうべき「信康事件」へ向かって話は展開しつつある。

「信康事件」とは、浜松を居城としていた家康に対して、岡崎城にあった家康の正室・築山殿(ドラマでは瀬名姫)と嫡男・信康が武田との内通の疑いをかけられ、築山殿は斬られ、信康は二俣城で切腹を命じられた、というものである。

 この事件の顛末(てんまつ)については、家康の家臣である大久保彦左衛門が書き残した『三河物語』に沿って、夫婦仲も嫁姑の関係も悪かった信康の妻・五徳(織田信長の長女)が嫉妬して、両者の武田側への内通、信康の領民への残虐行為、瀬名の唐人医師滅敬との不貞行為など、あることないことを信長に讒言(ざんげん)し、信長が処分を命じたので、家康が嫌々それに従ったという説が通説だった。

 ただ、『三河物語』でも、五徳の手紙を信長の元に持参した重臣・酒井忠次に信長は真偽について尋ねており、忠次はいずれの点についても否定しなかったとある。そして、忠次は岡崎を素通りして浜松の家康の元に直行し、家康は家臣たちに信康との接触などを禁じ、処分したというのであるから、讒言であれば、忠次が信康を弁護していないのはつじつまが合わない。

※井伊直政、本多忠勝、榊原康政が10万石クラスだったのに、酒井家が家康の関東移封のときに3万7000石しかもらえなかったのは、このときに信長に上手に弁解しなかったからだという説かある。だが、それは、酒井忠次はすでに引退して、子の家次は若輩だったからである。家次はさして功績もなかったが越後高田10万石、孫の忠勝は山形13万7000石に抜てきされている。

 そして、最近では、各種の日記など同時代資料の調査が進み、信康の乱行が事実で、また、家康と信康の対立があったことも書かれているのが明らかになった。しかも、本能寺の変以降で、信長の目を気にしなくてもよくなった時期においても、家康が信康をふびんだと思ったり名誉回復をしたりしたこともない。

 また、家康は六男の松平忠輝(のちに越後高田城主。伊達政宗の娘婿となったが、乱行のために流罪にされた)について、「面貌怪異で三郎(信康)の幼い頃に似ている」といって嫌ったといっている。「信康については、幼い頃に無事に育ちさえすればいいと思って放任したので、成人してから教え諭しても親を敬わず、不仲となり悲劇を招いた」としている。

 こうしたことは、信康の同母妹である亀姫の子・松平(奥平)忠明が編纂に関与したとされる『当代記』にすら書かれていることだから、家康は信康の育て方を誤ったことは悔いているが、切腹させたことは悔いていなかったことは確実だ。