勝家とお市の結婚は、別に秀吉に対する不快感の結果ではない。「浅井攻めの指揮官だった秀吉はお市に懸想していたが、お市は亡き夫の敵であった秀吉を毛嫌いし、当てつけに秀吉と不仲だった勝家と結婚した」という俗説があるが、そもそも、秀吉とお市が会ったことがあるかすら怪しい。
浅井への輿入れのときは、秀吉の地位が低すぎるし、小谷城陥落のときにも接点が見いだせないし、その後、伊勢にいたとみられるお市と会った可能性は小さい。このあたりの経緯は、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)や「浅井三姉妹の戦国日記」(文春文庫、いずれも八幡和郎・衣代)で詳しく謎解きをしている。
信孝のあっせんとも言われるが、お市と信孝が親しいわけでもなかったし、お市と三姉妹が世話になっていた信長の兄弟・信包は、その後、秀吉と行動を共にしているのだから、信孝が動く余地はない。
おそらく、この結婚は、信長とお市の母である土田御前の意向だと思う。もしかすると、信長の生前から、そんな話もあったのかもしれない。いずれにしても、信長の死後、お市一家の経済的な面倒を誰が見るかは難しい問題だったので、土田御前が娘のことを心配して、旧知で独身である勝家に嫁がそうと思いつくのはありそうなことだし、少なくとも母親の了解を取らないと進められたはずがない。
この結婚は、結局、秀吉を利した。美しいお市を迎えた柴田は有頂天で、新婚生活を楽しむために、北ノ庄にくぎ付けになりながら、織田家の一員になれたとばかりに、中途半端に信孝の野心を後押しするようになった。
柴田勝家はなぜ
信孝を担いだのか
しばしば、清洲会議で、信雄と信孝が三法師の後見になったといわれるが、その事実はない。三法師は岐阜にあったが、安土城の修理が終わったら、そちらに移して堀秀政が御守役になることに決まっていたのだが、信孝がそれを渋ったので大騒動が起きた。
それをけしかけたのは、滝川一益だろう。関東の領地を失い、伊勢長島に閉塞していた滝川が、領地も隣で旧知の信孝を担いでリベンジとし、勝家もそれに乗ってしまったということだ。
信孝は勇猛だったが、政治方面はあまり得意でなかったようで、差配を任された美濃でも地元の武将たちの統率もできず、むしろ彼らは秀吉になびいた。そして、秀吉は、丹羽、池田らと手を組んで、信雄を三法師の後見のような立場に押し上げ、信雄・秀吉連合が成立した。
秀吉は、信雄や近江日野の城主の息子で信長の次女・冬姫と結婚していた蒲生氏郷などに滝川と戦わせ、冬になり越前の勝家が雪で動けなくなったのを見計らって信孝を攻め、三法師を安土に移し、信孝の母や姫を人質に取った。
長浜城主になっていた勝家の養子である勝豊を攻めて、これも従わせたが、お市と新婚生活を楽しんで、十分な兵力を近江に置いておかなかったのだからお粗末なことだった。
柴田勝家は、焦って、2月の終わり、深い雪をかき分けながら湖北へ進出し、羽柴軍とにらみ合い、岐阜の信孝も反信雄・秀吉で再び立った。だが、美濃の織田家臣たちも秀吉につき、信孝の母親と娘は信雄に殺されてしまった。