歴史的な事実とかけ離れた
「どうする家康」の本能寺の変
NHK大河ドラマ「どうする家康」も、いよいよ本能寺の変の前夜である。
今の流れだと、家康も秀吉も増長する信長に殺意を持っていたが、それとは関係なく、家康接待の失敗でミスを犯して恥をかかされ窮地に陥った明智光秀が、家康と秀吉よりも先に本能寺の変を起こしたということになりそうだ。
家康は瀬名と信康という愛する妻子を、信長を恐れたために死なせたのち「面従腹背の道」を選んだというストーリーに無理やりにした。だが、家康がすべてを裏で操っていたとするのも無理があるので、こうしてつじつまを合わせたようだ。
だが、歴史的な事実とはかけ離れている。『【どうする家康】嫡男を家康が切腹させた事件の通説に疑問、父子関係の異例さ示す数字とは』で書いたように、瀬名と信康が家康から徳川家を乗っ取ろうとしたため、家康の主導で殺したのであり、家康はそれを信長の死後も悔いていた節はないのだから、面従腹背の道というのはありえないのである。
本能寺の変についての私の主張は、信長と後継者として認知されていた嫡男信忠の二人が、軽武装で同時に京に滞在し、ほかの有力武将が近くにいない真空状態が生じたのを見て、「リストラ」を恐れていた光秀が、天下取りの出来心を起こしたというものだ。
たしかに、光秀には天下取りまでいかなくとも畿内の支配者となるチャンスはあったが、「政権構想」があまりにも貧弱で、根回し不足のみならず、ただちに、的確な行動に出ることすらできなかった。そして、秀吉が予想外の速さで全軍率いて京都へ帰ってきた「中国大返し」をしたために敗れたのだと思う。
この推理は、拙著『令和太閤記 寧々の戦国日記』でも、明智光秀を主人公としたNHK大河ドラマ「麒麟が来る」を踏まえて書いた。今回は、さらに「どうする家康」のストーリー展開も踏まえて解説する。