ソ連軍の侵攻により、他の地域の多くの満洲開拓団員も、方正県を経由して、ハルビン中心部へ向かおうとした。方正県には、関東軍の食糧補給基地があり、またハルビンへの通過点であったからである。方正県に避難してきた約1万5000人の満洲開拓団員のうち、飢え、寒さ、疲労、伝染病などで約5000人が死亡した。取り残された幼児、婦女など約5000人は、終戦後も日本へ帰ることができず、方正県に留まることになったという。

 残された婦女の多くは中国人と結婚し、身寄りのない幼児は中国人の家庭に引き取られ、いわゆる中国残留婦人・残留孤児となった。総称して中国残留日本人といわれるが、敗戦当時、13歳以上を中国残留婦人、12歳以下を中国残留孤児という。

 文化大革命期には、中国残留日本人は「東洋鬼子」と呼ばれ差別、虐待を受けた者も多かった。このような満洲開拓団員の悲惨な状況については、山崎豊子『大地の子』(文藝春秋、1991年)でも描かれている。

 1972年の日中国交正常化の翌年から、中国残留日本人とその家族の日本帰国事業が始まった。方正県は、帰国する中国残留日本人とその家族がもっとも多く、日本で生活する方正県出身者は3万8000人(2011年)と推定された。

 方正県の中心地、方正鎮の郊外に、方正地区日本人公墓がある。犠牲になった大勢の満洲開拓団員も日本軍国主義の被害者であるとして、1963年、周恩来首相の特別の許可を得て建設されたものである。ここには、収集された開拓団員の遺骨が納められている。

 1995年には、方正地区日本人公墓とその周辺は、中日友好園林と改称された(写真)。方正地区日本人公墓の左隣には、麻山地区日本人公墓がある。前述した麻山で集団自決した哈達河開拓団員の遺骨を集めて、1984年にここに墓が建てられたのである。

方正県の中日友好園林(入り口)と方正地区日本人公墓。墓石には「一九四五年亡故 一九六三年五月立」とある方正県の中日友好園林(入り口)と方正地区日本人公墓。墓石には「一九四五年亡故 一九六三年五月立」とある(写真提供/山下清海)

 方正地区日本人公墓および麻山地区日本人公墓の近くには、中国養父母公墓が2004年に設立された。反日的な厳しい環境のなかで、日本人残留孤児を育ててくれた中国人養父母への感謝の思いが伝わってくる。

開拓団の慰霊碑をペンキで汚し
ハンマーで砕いた反日活動家たち

 満洲開拓団の主要な入植地の1つであった方正県は中国残留日本人も多かった。前述したように1972年の日中国交正常化の翌年から、中国残留日本人の日本帰国事業が始まり、方正県からも多くの残留日本人とその家族が日本へ帰国した。日本に帰国した中国残留日本人から中国の家族や親類への送金も増加していった。方正県の中心部の方正鎮のメインストリートである中央大街には、海外送金を取り扱う銀行の支店が多数立地している。