方正県と日本との交流は深まっていった。私が方正県の中心街を歩いていると、「日本の方?私も日本に住んでいて、方正に墓参りで帰ってきたの」と元残留日本人の方から日本語で声をかけられた。食事や買い物で店に入ると、「私の親類も、今、日本で働いています。私も日本に行って働きたいので、日本語を勉強中です」というような人たちに多数出会った。

 方正県の行政側も日本との深い関係を重視してきた。方正鎮のメインストリートにある店舗の看板には、中国語とともに日本語を併記することが義務づけられた。そこには、多くの日本人に方正県に来てもらい、日本企業にも方正県へ投資してほしいという期待があった。

 ところが、2010年9月、尖閣諸島沖で中国漁船が日本の巡視船に体当たりする事件が発生した。これにより日中関係は悪化し、中国各地で反日デモが起こった。

 このような状況のなかで、翌2011年7月末、方正県の中日友好園林の方正地区日本人公墓の傍に、方正県政府が70万元(当時、約840万円)をかけて、新しく満洲開拓団員の慰霊碑(日本開拓団民亡者名録)を建立した。慰霊碑には、身元が判明した約250人の満洲開拓団員の氏名が刻まれた。

 この満洲開拓団員の慰霊碑建設が中国国内で報道されると、一部メディアやインターネット上では、「なぜ侵略者の慰霊碑を建てるのか」といった多くの批判が出て、建立した方正県政府は親日的だ、売国奴だと攻撃されるようになった。

 このようななか、反日活動家5名が、建立されたばかりの慰霊碑に赤いペンキをかけ、ハンマーで一部を砕くという事態が起こった。この動画がインターネットにアップロードされると、行動を起こした5人は英雄扱いされた。慰霊碑建立から10日あまりで、方正県政府はこの慰霊碑を自ら撤去してしまったのである。

 この事件により、マスコミ関係者をはじめ方正県への日本人の訪問は、当局により厳しく監視されるようになった。私は2011年8月に方正県を再訪する予定であったが、やむを得ず中止せざるをえなかった。翌2012年夏、中日友好園林を再訪した際には、写真撮影不可という条件で、中日友好園林の内部に入ることができた。

 方正地区日本人公墓の背後に建てられたはずの満洲開拓団員の慰霊碑は、影も形もなかった。わずかに、慰霊碑があった地面の土が周囲より硬いことに気がついた。ふと、2011年に浙江省温州市で起こった高速鉄道の衝突・脱線事故で、事故車両が穴を掘って埋められそうになったことを思い出した。