自分にとって心地良いスタイルを
馬が教えてくれた
実は、当時起きたことを、このように言語化して説明できるようになるには時間がかかった。その時はただ、「どうして私の言うことに従ってくれなかったのか?」とモヤモヤしていた。
しかし、一晩寝て朝を迎え、もう一度ふりかえってみると、「強制できなかった自分を、決して嫌いじゃない自分」がいることに気づいた。つまり、馬が教えてくれるのは一つの基準を満たすかどうかの結果ではない。その人にとって心地いいと感じる「スタイル」なのだと。
普段、自分が他者とのコミュニケーションをとる上で、何を心地いいと感じるのか、何を大事にしたいのかというスタイルの軸が明らかになる時間だったのだと、札幌を離れて数ヵ月が過ぎた今、改めて思い返している。
思考は未整理状態ではあったものの、馬とのふれあいを始めて数時間経つころには、「ここではつくろえないな」という覚悟のようなものができていた。きっとほかの参加者も、近い感覚を持ったのではないかと思う。自然とお互いに自己開示できる空気ができていた。
質問は短く
回答者を誘導しない
そんな中で体験した「困難な対話」というワークが、とても学びの多い時間になった。これは参加者それぞれが、過去に体験した「困難な対話」のエピソードを事例として語り、ほかの参加者たちからインタビューを受けるというもの。
インタビューは、ボードと付箋を使いながら、「先行刺激(何が起きたか)」「行動(先行刺激を受けて、何をしたか)」「後続結果(その行動の後に何が起きたか)」を区別して聞き取り、さらに行動の中に発見できる「思い込み」や、これから大切にしていきたい「価値観」を明らかにしていく。
「質問の仕方がとても重要です。主張や断定は避けて、質問によって相手の気づきを促すことを心がけてください」(素子さん)
これは興味深かった。私は普段の取材活動で、1対1のインタビューで話を聞くシーンは豊富に経験してきたが、一人の話し手を中心に複数の聞き手でじっくり掘り下げるインタビューというのはほとんど機会がない。ほかの聞き手の質問から、自分では思いつかない視点を得られるのが新鮮で、自分自身の質問の仕方のクセも見えてきた(岸田奈美さんによると、私は「相手に寄り添う系」の質問が多いらしい)。
ある参加者は、かつて取材で会いにいった著名人との間で起きた「困難な対話」について話してくれた。フランクで親しみやすいイメージを持っていたその人が、実際に会ってみると機械的な受け答えに終始し、失望すると同時に自分を軽視されているようなショックと自己嫌悪に陥ったという告白だった。もう10年以上前の出来事なのだそうだ。
「期待と何が違ったのか?」「自己嫌悪という言葉を使ったが、何に対して嫌悪を抱いたのか?」「その日の帰り道にはどんな気持ちになった?」「この経験で獲得した技術は?」「もう一度取材できるとしたらどんな会話から始めたい?」「どんな助けが必要だったか?」「なぜこのエピソードが引っかかっていた?」――。
絶え間なく質問が投げかけられた。
先行刺激・行動・後続結果という“型”が用意されていることで、質問が浮かびやすく、また、質問の偏りにも気づきやすい。インタビューを構造化し、その型を聞き手と話し手の双方が合意をした上で質問をするので、とてもスムーズに展開できる。
質問の仕方についても、素子さんから適宜、アドバイスが入る。
「答えを誘導するような前提の説明はできるだけ避けて。質問は端的に短くするほうが、答える相手の思考の自由度が高まります」
「『それはもしかしたら、あなたにとってこういう意味だったのかもしれませんね』と答えを出すような言い方は、決めつけになってしまいます。『それはあなたに何をもたらしますか?』と、あくまで本人の言葉を聞くことに徹して」
特に二番目の助言は、深く考えさせられた。普段のインタビューでは、私は相手の話をより深く理解するために「解釈」をぶつけることですり合わせをすること重視している。「今おっしゃったことは、つまり、こういうことですか?」「こんなふうにも表現できるかもしれませんね」と、より精緻に伝えるための言語化のアプローチとして、「解釈をぶつける」という手法を積極的に使っている。
質問よりも解釈を返すほうが多いくらいなのだが、その解釈に頼り過ぎるのも危険なのかもしれない、とハッとした。
一人の事例につき30分程度、じっくりと深堀りする時間は、贅沢な「聞く・聞かれる」体験となった。「10年前に起きた、些細であるが、ずっと心に引っかかっていた出来事」を掘り起こして初めて打ち明けるようなコミュニケーションが可能になるのも、この場がお互いに内面をさらけ出せるという心理的安全性が保たれた場であるからなのだと思う。
そして、そんな“場づくり”を可能にしているのは、ここで私たちが触れ合える「馬の力」なのだろう。馬の前ではみんな裸になってしまうのだから。
ほかにも「身体的反応があるほど影響を受けた読書体験」について語り合うプログラムや、人同士の観察を行うプログラムなど、馬と他者を通じて自分を見つめる時間を濃く重ねられた。
素子さんによると、COASのプログラムに決まった型はなく、その時々の参加者が抱える課題によってタイムテーブルがカスタマイズされるとのこと。
例えば、企業で働く管理職メンバーが中心の場合は、「リーダーシップ」をメインに組まれるのだそう。中には毎年のように訪れてリピートする人もいると聞き、その理由が分かる気がした。きっと、自分を知りたくなったときに、透明な“鏡”を求めて訪れるのだろう。
私も東京の慌ただしい日常に戻った。流れゆく季節の中、ふとした時にまぶたの裏に浮かぶのは、あのときのエルメス君の瞳だ。
「これでよかったの?」と問いかけるかのような、あの瞳の奥のメッセージが聞こえてくる。