馬の姿を見ているのか?
自分の物語を見ているのか?
馬場に案内されると、柵の向こうで3頭の馬がリラックスして草や雪とたわむれていた。
最初に体験したのは「リーダーを探せ」という観察のプログラム。参加者4人のうち3人が目を閉じ、1人が3頭の馬の様子を観察し、実況する。「瞬きをした、尻尾を揺らしたなど、小さな動きも逃さず、説明してくださいね」と素子さん。
ポイントは「事実」と「主観」を分けること。これが簡単なようで、実は難しい。
例えば、Aという馬が、ほかの馬Bの体に鼻先をつけ、Bが動き出すのと同時に追いかけていった様子がいかにも仲睦まじく見えたとしても、「仲睦まじそうに」は主観的な印象でしかない。その間にもう1頭のCがまったく異なる別行動をして、「寂しそうに」見えたとしても、それも事実とは限らない。
見えるものを見えるままに、ニュートラルな視点で言葉にして説明する。参加者それぞれが見てきた「事実」を発表した後に、その事実に基づいて、「物語」を創作するワークをやってみると、明らかに使っている脳が違うことを体感できた。情報のインプットの姿勢の軸を正すような時間だった。
ランチを挟んで次のプログラムは「馬と歩く」。いよいよ柵の中で馬とダイレクトに触れ合うと聞いて、胸が高鳴った。
「一人ずつ馬場に入っていただき、馬と一緒に歩いてもらいます。方法は自由です。ただし、『歩け』『走れ』『止まれ』などの言葉の指示は効きません。馬は言葉ではなく、感覚でメッセージを受け取る生き物だからです。馬の体に触れるのもNGです。言葉による指示をせず、体に触れずに、一緒に歩いてみましょう。馬場を一周できたらクリアです」
指示なしで馬の体に触れずに
馬を思い通りに動かせるか?
素子さんの説明を聞いている間に現れたエルメス君は、牧場のスタッフに促されてのんびりと歩いている。「そんなに難しくないんじゃない?」と気楽に構えていたが、とんでもなかった。
動かない。動かない。動かない――。
どんなに念じても、馬は一歩も動いてくれはしない。
10メートルほど離れた位置から観察し、少しずつ近づいて、至近距離でコミュニケーションを試みる。
しかしながら、エルメス君は、私にお尻を向けたまま柵をハムハムとかじるのに夢中で、うんともすんとも動かない。こっそり、「ねえ、一緒に歩かない?」と声をかけてみたけれど、ピクリと耳の先を動かすだけで、「無視」されている感じ。
先にトライしたほかの参加者も最初はうまくいかないものの、数分後には楽しげに一緒に歩いていたのに……(「楽しげに」というのは主観による印象だが、私にはそう見えた)。
タイムアップが近づき、焦ってきた。どうしたら動いてくれるのか必死に考え、私は奇策に出た。
馬からあえて離れ、自分一人でグルッと馬場を歩いてみた。思いつく限り楽しそうに歩いてみた。「馬は指示命令では動かない。相手の感情や心の状態を敏感に感じ取って、それに反応するだけ」という素子さんの言葉を思い返し、一方的に念じることをやめて、“巻き込む”アプローチへ転換を試みたのだ。
すると、奇跡が起きた。
柵で遊んでいたエルメス君が顔を上げ、数秒の間、私をじっと見た。そして、こちらに向かってきた。なんと、一緒に歩いてくれたのだ! 馬場を周回とはいかないが、直径5メートルほどの小さな円を描くようにゆっくりと歩いてくれた。
思わず「ありがとう!」という言葉がもれた。その時、エルメス君の大きな瞳が私をとらえた。吸い込まれそうな瞳と目が合う。馬の目は細長い顔の側面についているので、片方の目で見つめられる。とても長い時間に感じられたが、おそらく10秒にも満たない。「これでよかった?」と言われているように感じた。
私はちょっと分かった気がした。「ああ、お見通しなんだ」と。私が本心では、「無理に強制してまで、一緒に歩きたいとは思わない」と考えていることを見透かされていたのだと、直感的に気づいた。
事実、私は柵を夢中でかじっているエルメス君をそばで見ている方が、うれしかった。その気持ちが、そのまま伝わっていたのだろう。「馬は鏡」という素子さんの言葉の意味を少しだけ体感できた気がした。
同じ馬でも、関わろうとする人間が違えば、まったく反応が異なる。ほかの参加者と楽しげにスキップを踏むように見えたエルメス君は、その隣にいる人の心をそのまま映しただけなのかもしれない(ちなみに、最も楽しそうに馬と歩いていたのは編集の日野さんだったが彼女は普段から「自分が楽しいと信じることを、人にも伝えて一緒に楽しむ名人」だ)。