世界は争うよりも一緒に解決すべき課題に満ちている
恥をお話ししなければならない。OBサミットが始まった頃、私は大学で政治学を勉強していた。OBサミットについての記事も読んだ記憶があるが、「どうせ、首脳OBの“サロン”だろう」という程度の認識でしかなかった。
しかし、本書で認識は一変した。
OBサミットは、各国の元首脳が集まっただけではない。
1983年から30年以上にわたって毎年専門家会議と総会を開き、参加者が真剣な議論を重ね、毎回提言や報告書を出し、さらに各国へ必要に応じて要請も行なってきた。
米ソ核軍縮では、米ソ指導者が7年ぶりに顔を合わせるきっかけをつくり、環境問題では地球温暖化などを、まだ世の中でほとんど言及されていなかった時期に警鐘を鳴らし、経済問題では、規律なき経済活動の危険性、たとえばアジア金融危機やリーマンショックなど後に起きる経済危機の構造問題を指摘した。
著者の渥美桂子氏も述べているが、もしこれらの提言をもっと真剣に各国、特に超大国が耳を傾けていれば、事態は別な展開を見せていたかもしれない。
OBサミットについて特筆しておかねばならないのは、世界で起きている問題の討議をするのみならず、問題を解決するための「誰もが守るべき倫理」を策定したことである。
その集大成である「人間の責任に関する世界宣言」は、日本で取り上げられることは少ないが、フィンランドの国会ではこの「責任宣言」を功績としてOBサミットをノーベル賞候補に推薦した。また、オーストラリアの中学・高校の教科書に載せられるなど、大きな反響があった(本書には全文が掲載されているので、一読をお勧めしたい)。
さらに。この「責任宣言」を策定する前に、OBサミットでは主要宗教と政治指導者の対話、いわゆる「宗政対話」を実現する。
新旧キリスト教やヒンズー教、仏教、イスラム教、儒教などの指導者、それに無宗教の知識人らも参加した。
なぜそんなことをしたのか。
宗政会議を推進した福田赳夫は、「たとえ宗派が違おうと、あるいは政治体制が違おうと、民族や肌の色や性別が異なっていようとも、共通の倫理観があるはずだ」と考えた。
例えば命の大切さや、他人に対する思いやりや、むやみに暴力を振るうべきではない、といったことである。
これらを明らかにすることで、共通の立場に立って世界人類の問題に対処できると考えたのである。
違いについて角を突き合わせるのではなく、同じ思いの部分で協力し合う。
福田は、「世界は争うよりも一緒に解決すべき課題に満ちている」ということを、長い政治経験の中で強く感じていたのである。