困窮で中学進学も危ぶまれた

 浪花節的エピソードに事欠かない政敵・田中角栄に対して、福田のエピソードはあまり伝わっていない。

 しかし、石原慎太郎が若い頃都知事選に敗れ選挙後の精算に困ったときに、石原を知事候補に担いだ自民党の有力者はみな逃げて、石原の窮状を知った福田が借金の一部を肩代わりしてくれたと、石原は書いている。こういう話はたくさん残っているが、福田自身が他に語らなかったため、多くが埋没している。

「福田は東京帝国大学卒で大蔵官僚上がり、苦労知らずのエリート」というイメージがあるが、実像は真逆と言っていい。

 福田家は豪農であったが、父親が両足を失う悲劇もあり、経済的苦境で中学進学が危うかった。ちなみに福田家は戦後農地解放が行なわれた際、手放すべき土地が無かった。福田は学校から帰ると弟や妹たちの子守をし、あるいは自分の体重の何倍かの桑の葉を背負うなど、家業を手伝っている。
 
 いま、福田が再評価されているが、その中で「国民皆保険」「国民皆年金」導入を自民党政調会長として主導したことも指摘される。福田が「皆で社会を支える」という考え方を持ったその基礎は、おそらく幼少期の父親の病気や、経済的な苦境が背景にあったと考えられる。

ただ現状に感謝し、満足しているだけではすまされない

 OBサミットは参加者に個人的利益をもたらすものではなかった。

 創設者である福田にとっても、負担でこそあれ、利得はまったくなかった。

 それなのになぜ、福田はOBサミットを主唱したのか。

 世界的な問題、たとえば安全保障や環境問題、南北格差などは、結局力の弱い国や社会的弱者にツケが回る。

 これをなんとかしたかったのが、福田の大きな動機ではなかったか。

 福田は生前最後の公の場(1995年・OBサミット東京総会)で次のようにスピーチした。

「50年前に私たち日本人のみんなが廃墟の中でなめた苦しみを、いま世界で十数億人にも達するという貧困層の人々のそれと重ね合わせるとき、私たちはただ現状に感謝し、満足しているだけではすまされないのです」

「困窮している人々の生活を少しでも改善できる展望が持てるよう、最大限の協力をしなければならないのです」

解説『OBサミットの真実』第2回 知られざる福田赳夫

 これが亡くなる2ヶ月前のこと。車椅子で会場入りした福田の気迫は、か細い声とは裏腹に会場を圧倒した。

 幼少期からの体験や生まれ持った倫理観の強さが、利得を求めず一国主義的な国益を求めず、人類全体の利益を考えOBサミットを創設した要因であったろう。

異例の発言時間が意味するもの

 福田には、経済・財政家としての顔と優れた外交家の顔がある。

 経済・財政家としての評価は、田中角栄が自身の内閣でとてつもないインフレが起き、しかも蔵相が急逝したとき、政敵・福田に蔵相就任を懇請したことからも明らかであろう。

 外交では、日中平和友好条約締結にあたり中国側の対ソ政策強要を拒否したり、東南アジア外交の方針である「福田ドクトリン」(1972年)もつくりあげた。

「心と心のふれ合い」という、外交文書にはほとんど使われないフレーズを入れて友好を謳ったこの文書は、いまも日本の東南アジア外交の基軸になっている。

 ちなみに本書では、著者の渥美氏の友人であるインドネシアの元閣僚が、福田ドクトリンを読んで反日家から親日家に転向したエピソードも語られている。

 OBサミットを主催する人間的な魅力が福田にあったことも触れねばなるまい。

 首相現役時代。ロンドンサミットで、通常1人5分程度の発言時間を、福田に30分の時間が与えられた。そして戦前のロンドン駐在時の体験などから、なぜ第二次世界大戦が起きたのかを説明させられた。これは、他国のメンバーの同意がなければ絶対に不可能である。それができたのは、福田がすでに他国のメンバーから信頼を得、人間的にも好かれていた証拠である。

 福田は「『自国だけがよければいい』という立場に立たない」ということを、どの会議でも示していた。いざOBサミットをつくるときに、「福田は私欲でやるのではない」ということがわかっていたから、次から次に賛同者が現れたのである。