多彩なメンバーたち
OBサミットに集まった首脳たちには、福田やシュミットと同じ価値観を相当部分共有していたことが、本書の記述で明らかになっている。
ケネディー政権で国防長官であったロバート・マクナマラは、「(核軍縮が進んでも)12,000発の核の爆弾を落とし合った世界と、四万発の核爆弾を落とし合った世界とに違いがあろうとはとうてい考えられない」と、核兵器そのものの廃絶を主張した。他のメンバーも同意見であった。
カナダのピエール・トルドーは現役の首相時代から社会的弱者に配慮する政治家で、発展途上国を応援することでも知られていた。
イギリスの元首相、ジェームス・キャラハンは、自身幼い頃に父親を喪い、中学を卒業してすぐ働きに出て辛酸をなめたことから、厳しい境遇の人々に温かい眼差しを持ち続けていた。
また、次のエピソードはOBサミットメンバーのありようを雄弁に語っているように思える。
ローマ宗政会議の折。福田とシュミット、そしてマルコム・フレーザー(オーストラリア元首相)が朝食をとっていた。
話題は、朝の「祈り」について。
シュミットは「私は祈ることはしないが毎朝考えることはある」と言うと、福田が「私もそうだ」と応えた。その内容をシュミットが尋ねると、「『今日も正しい判断ができるように』、です」。
シュミットが大きく相づちを打った。
「私も全く同じ!その日一日正しい判断ができるようにと考えています。タケオは『心にかなった正しい判断』を、ということでしょう?」
「そう。チャンセラー(「首相」の意)の場合は、『理性にかなった正しい判断』を、かな?」
二人の会話を聞いていたフレーザーが、「私も心がけたい」という会話を繰り広げた場面を、渥美氏は同席者としてメモをとり、本書で再現している。
「今日も正しい判断ができるように」という思いを抱き続ける元首脳たちが、「心」と「理性」によって世界の諸課題を解決しようとしたのである。
なぜかつてのOBサミットは出現しないのか
本書を読むと、OBサミットいまありせば、という思いを誰しもが抱くであろう。
ではなぜいま、かつてのOBサミットのようなものが出現しないのであろうか。
それは、指導者たちに大局観が欠如しているからではなかろうか。
大局観とは、過去を知り未来を予見する時間的想像力と、世界の中で自分はどう生きるかという空間的想像力である。結果として、「違いよりも共通の問題を解決しよう」という解が導き出される。
今しか見ない、自国だけ良ければいい、こういう考えが横行すれば、世界は混迷するしかない。
福田やシュミットが、保守と社会民主主義という政治的な立場を超えて信頼関係を築けたのは、「違いよりも共通の問題を解決しよう」という大局観を互いに持っていたからにほかなるまい。
もしかつてのOBサミットの再来を願うのであれば、まずは、福田たちが構想し実行してきたOBサミットについて広く知らしめることが肝要ではないか。
たった一人の引退した日本の政治家が、全世界の良心を巻き込んで、かかる会議体をつくったという事実。
その理想に共鳴して、一流の「OB」たちが集まったという事実。
彼らが30年以上にわたって、変質することなく世界の課題に取り組んで、的を射た提言や宣言を出し続けていたという事実。
いまその内容を知り、それを反芻することで、世界はほんの少しかもしれないが、良くなっていくような気がしてならない。