家康の侍医を務めた板坂卜斎の『慶長年中卜斎記』によると「三成は、西丸の向かいの曲輪の屋敷へ参着」と書かれている。また『慶長見聞書』には「三成を女の乗り物に乗せ、佐竹義宣に同道させ、宇喜多秀家がいる備前嶋に行き、相談した。徳川家康に今回のことを申し入れ、伏見に赴く。秀家からは家老を付けられ、佐竹も同道し、伏見に行く。伏見の治部少輔屋敷は本丸の次、一段高い所にある」とある。
これらの史料が示しているのは、治部少輔・石田三成の避難先は、家康の屋敷ではなく、伏見の自分の屋敷であることだ。伏見城内の自らの屋敷に立て籠もった三成。城内に入れない七将と睨み合うことになるが、家康はその調停に乗り出すことになる。
その結果、三成は居城・佐和山城(滋賀県彦根市)に引退、一方、三成を襲撃しようとした黒田長政・蜂須賀家政に対しては「朝鮮蔚山城での籠城戦のおり、追撃が弱く、敵との戦いを回避したという嫌疑を受け、秀吉から処罰されたことについて、新たに調査したこと、現地の目付衆が証言している通り、正当でない処分と思われるので、没収された領地については、還付すること」などが申し伝えられた(閏三月十九日)。
黒田長政・蜂須賀家政らの名誉が回復されたわけだ。これでは、彼らも矛を収めざるを得ない。この事件の解決には、家康の尽力もあったが、秀吉の正室・北政所の奔走もあったと言われている。
秀吉死後、毛利輝元と四奉行(石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)を中心とするグループと、前田利家・浅野長政・宇喜多秀家を中心とするグループが形成され、家康(家康支持の大名は、例えば、池田輝政・黒田長政・福島正則・藤堂高虎ら)を牽制する動きがあったとされるが、七将による三成襲撃事件の背景には、そうした対立構造があったことが要因ともされる。
より大きく言えば、今回の事件は、毛利輝元を中心とするグループと、家康を中心とするグループの対立関係が顕在化したものとも言える。