書影『家康クライシス-天下人の危機回避術-』(ワニブックス)『家康クライシス-天下人の危機回避術-』(ワニブックスPLUS新書)濱田浩一郎 著

 家康としても、七将の三成襲撃という「暴挙」を黙認することはできなかった。黙認すれば、政局は混沌とし、秩序は乱れ、場合によっては、家康の指導力が低下し、危機に陥ることも考えられたからだ。そうなるよりは、七将の武力行使を抑止し、三成を佐和山への引退という形で中央政界から追放するほうが、家康にとって有利に作用するであろう。それを証明するかのように、家康は宇治川対岸にある伏見向島の屋敷から、伏見城西丸に入ることになる(閏三月十三日)。

 これを聞いた奈良・興福寺の多聞院英俊は「天下殿になられ候」と、その日記に家康のことを記した。伏見入城をもって、家康を天下人と見做す空気があったことが窺える。

 閏三月二十一日、家康と毛利輝元との間で、誓紙が取り交わされた。輝元側の誓紙には「自分は豊臣秀頼様のことを疎(うと)んじる気持ちがないと、家康に申し入れたところ、同意が得られたことに感謝する。家康に対して、別心もなく、父兄のように思い接する」との内容が記されていた。

 一方、家康側の誓紙には「豊臣秀頼に対し、粗略なきことに同意する。輝元に対し、別心なく、兄弟のように接する」ことが書かれていた。家康の誓紙には「兄弟のように」接するとあり、輝元の誓紙には家康を「父兄のように思う」と記されていることが注目される。「父兄」の家康が上位に立ったことがわかろう。

 家康は三成襲撃を企てた七将を抑えたばかりでなく、大大名の毛利輝元をも下風に置いたと言えるだろう。一滴の血も流さずに。輝元や三成に与していた増田長盛や長束正家・前田玄以ら三奉行や豊臣家の有力官僚も、家康方に転じることになる。七将による三成襲撃という事件を、あっという間に、自らに有利なように持っていった家康の手腕には目を見張るものがある。