例えば、私が農村を訪れた時に、アフガニスタンの女性と握手して談笑した経験は一切ない。一方で、カーブル陥落後、日本に逃れてきたタジク人家族に東京を案内した際、アフガニスタン人の夫は私に妻を紹介し、私はその妻と握手し談笑した。その夫は北部バルフ州マザーリシャリーフ出身の獣医で、若い時分にインドで生活していたこともあった。このように都市部で生まれ育ち、高等教育を受け、外国生活にも馴染んでいる家では、女性の「顔」が垣間見えることがある。イランに移住したハザーラ人家族は、家の中で私に妻を紹介した。一般に、ハザーラ人は苦しい境地から抜け出す術なのか、教育に熱心なことでも知られる。このように、アフガニスタン社会には、安易に一括りにして説明できない複雑さがある。
アフガニスタン・イスラーム共和国政権時代、都市部における女性の社会進出と解放は著しく進んだ。欧米諸国の肝いりで女性課題省も設置され、男女平等の考えの下、教育・就労・社会などのあらゆる面で女性の権利拡充が進められた。
これがアフガニスタン社会の一面であるならば、部族の慣習や掟を尊重し、女性の尊厳を厳格に守る部族文化も同じ社会のもう一つの側面である。パシュトゥーン人の部族慣習法の中には、「ナームース」という女性の尊厳、あるいは女性の貞淑を指す考え方がある。パシュトゥーン人社会では、他人の妻や娘に対していささかであっても関心を示すことは、相手のナームースを傷つける行為であると考えられる。男性同士の挨拶において、「奥さんのご機嫌はいかがですか?」という挨拶は聞かれない。相手の妻や娘の容姿や所持品を褒めることも御法度だ。
首都カーブルに、アメリカン・ユニバーシティ・カーブル校があった。欧米の教授陣や、欧米で修士号、博士号を取得したアフガニスタン人が教える大学で、アフガニスタンの若者が憧れる大学だった。キャンパスの様子は、アメリカの大学そのままだったといってよい。男女交際も日常的に行われていたという。