京セラ創業、KDDI躍進、JAL再建――稀代の名経営者、稲盛和夫は何を考えていたのか?
2つの世界的大企業、京セラとKDDIを創業し、JALを再生に導きますが、稲盛和夫の経営者人生は決して平坦なものではありませんでした。1970年代のオイルショックに始まり、1990年代のバブル崩壊、そして2000年代のリーマンショック。経営者として修羅場に置かれていたとき、稲盛和夫は何を考え、どう行動したのか。この度、1970年代から2010年代に至る膨大な講演から「稲盛経営論」の中核を成すエッセンスを抽出した『経営――稲盛和夫、原点を語る』が発売されます。刊行を記念して、本書の一部を特別に公開します。
稲盛和夫の“すごい口ぐせ”とは?
従業員のモチベーションをアップさせるために、私が取り組んだことが、「ビジョン」を掲げるということでした。
私は、京セラがまだ中小零細企業であったときから、夢を語り続けました。
「私たちがつくっている特殊なセラミックスは、世界中のエレクトロニクス産業が発展するために、どうしても必要になる。それを世界中に供給していこう」
「そうすることで、ちっぽけな町工場で始まったけれども、私はこの会社を、町内一番、つまり原町一番の会社にしようと思う。原町一になったら、中京区一になろう。中京区一になったら、京都一になろう。京都一になったら日本一になろう。日本一になったら世界一になろう」
京セラは、京都市中京区西ノ京原町で創業しました。ですから「原町で一番」と言ったわけですが、間借りの社屋で、従業員数十人、売上も年間一億円もない零細企業のときから、「日本一、世界一の企業になっていこう」と、ことあるごとに従業員たちに話していたのです。
最初は誰もが「無理だ」と思っていた
しかし実際には、最寄りの市電の駅から会社に来るまでのわずかな距離に、京都機械工具という大きなメーカーがありました。朝から晩までトンカチ、トンカチと音がして、いかにも活況を呈していました。自動車の整備に使うスパナやペンチなど車載工具をつくっていた会社でした。こちらは木造の倉庫を借りて、ヒョロヒョロと操業を始めた、できたばかりの会社でしかありません。
ですから、西ノ京地区で一番になろうと言っても、従業員たちは「会社に来るまでに前をとおる、あの会社よりも大きくなるはずがないではないか」という顔をして聞いているわけです。かく言う私自身も、言い出した当初は、本当にできるとは思っていないのです。
ましてや「中京区一になろう」と言ってみたものの、中京区には後にノーベル賞受賞者を出した、上場企業の島津製作所がありました。分析機器では世界的に有名な会社でした。中京区一になるには、その島津製作所を抜かなければなりません。それはもう、とても不可能な話でした。