ボーダレスハウスで学んだこと

映画を作り終えて間もなくすると、就職活動が始まった。少し調べれば、いきなり国連に就職するのはハードルが高いとわかる。いずれ目指すとして、どういうキャリアを歩むのかを考えた。その時に、想像した。大企業でビシッとスーツをきて颯爽と働く自分と、稼げなくてもカンボジアのような現場で厳しい立場の人たちのために働く自分。鳥肌が立ったのは、後者だった。ただ、それを大っぴらにはしなかった。

「周りは普通に就職活動をしていたので、友だちに話しづらかったですね。学校では大企業を目指しているふりをしていました(笑)」

吹っ切れたのは、ソーシャルビジネスを通じて社会問題の解決に取り組んでいるボーダレス・ジャパンの面接を受けた時。現在、代表取締役副社長を務める鈴木雅剛氏との面接で4時間近く話し込み、「本気でやりたいんだったら、今やったほうがいいんじゃない?」と背中を押された青山は2013年4月、同社で働き始めた。

ボーダレス・ジャパンでは、およそ4年半、「ボーダレスハウス」という事業に携わった。日本人と外国人が半々で共同生活を送り、国籍を超えた相互理解を深めるシェアハウスである。スタッフはそこで入居や退去の手続き、住民間のトラブル解決など日々の業務をこなしながら、住人のコミュニティを形成、強化する。

青山は日本で1年半この仕事に従事した。その後、新たにボーダレスハウスを立ち上げることになった台湾に異動になり、物件を借りるところから担当した(そこは台湾人と海外の人の割合が半々)。ボーダレスハウスの立ち上げは日本、韓国に続いて3軒目。当時は国際色豊かな環境を求める現地の若者と、現地での接点を求める留学生のニーズが高く、コロナ前の入居率は9割を超えていた。

台湾でも2年間、ボーダレスハウスの事業を担当した青山は、なにを感じたのだろうか?

「人が人を理解するのは難しいなと感じました。でも、そこに国籍は関係ありません。日本人同士でも大好きになる人もいれば大嫌いになる人もいますよね。そして、簡単にわかりあえないなかでトラブルが発生した時に、相手に変わってくれ、直してほしいと言い募るのではなくて、自分もどう変われるかという歩み寄りが求められるものだなと改めて実感しました」

知られざる難民申請者の苦境

台湾から帰国した青山は1年ほど、ボーダレスハウスの入居希望者を増やすためのマーケティング業務に就いた。この時、起業を意識し始めた。ボーダレスハウスは、国際的な相互理解の種まきをする場所だ。しかし、現在進行形で戦争や紛争などの被害に遭っている人の助けにはならない。そこにもどかしさを感じていたのだ。