写真:定年,ビジネスマン,退職写真はイメージです Photo:PIXTA

定年が数年後に近づいてくると、多くの人は不安に駆られる。これまでは毎日やることがあったし、通う場所があったけれど、それがなくなったらどんな生活になるのだろうと考え込んでしまう。毎日会社に行って仕事をするというのは、ある意味“思考停止状態”でも生きて行かれるということだからだ。「定年後、どうやって生きていこう?」という不安は、どうやったら乗り越えることができるのだろうか。(心理学博士 MP人間科学研究所代表 榎本博明)

定年退職がもたらす、アイデンティティーの危機

 定年退職というと、収入がなくなるとか、通う場所がなくなるといったことに目が向きがちだ。しかし、定年退職がもたらす非常に重みのある危機として、“自分の役割を失う”ということがある。役割喪失はアイデンティティーの危機でもある。

「仕事で稼いで家族の生活を支えているのだ」と自負してきた人が、そうした役割を失うと、自分の役割が何なのか分からなくなる。何の役割もないとなると、自分はもう必要のない人なのではないかといった疑念が頭をもたげてきたりする。

 所属や肩書を失うこともアイデンティティーの危機をもたらす。とくに、自分と会社を一体化していた人にとって、それは大きな危機となる。たとえば、「○○会社の佐藤です」「△△部の鈴木です」というように所属組織や部署が自分の存在証明になっていた人や、「○○部長の高橋です」「△△グループ主任の田中です」というように組織内の肩書が自分の存在証明になっていた人は、退職と同時に自分の存在証明を失うことになる。

 同じく会社勤めを長年してきた人でも、家庭人としての自分や、趣味人としての自分も同時に生きてきたという人の場合は、仕事人としての自分を失っても、まだ他の自分があるので痛手はそれほど大きくない。むしろ退職後は、家族と一緒に過ごす時間が増える、好きな趣味に思い切り浸ることができるなどと思い、ますます元気が出るかもしれない。

 だが、仕事人としての自分以外の自分を生きてこなかった、いわゆる会社人間の場合は、名刺に印刷された所属や肩書きを失うことによる喪失感が途方もなく大きい。職業上の役割を脱ぎ捨てたときに、自分を証明できるものが見当たらないのである。心の身分証明書を無くしたようなものといえる。

 そうなると、自分が何者だか分からないといったアイデンティティーの危機に陥る。いわば自分を見失った心理状態である。大きな不安や焦りに苛(さいな)まれ,気持ちが落ち着かない。そんな心理状態では,いくら自由な時間があるといっても、楽しむ心の余裕はない。