福島正則が大坂の陣で言った
「3年早く、3年遅かった」の意味
大坂方の挙兵を聞いたとき、福島正則が、「時すでに3年早く、3年遅かった」と言ったといわれる。本当に正則がそう言ったかどうかは分からないが、実態はまさしくその通りであった。
なにしろ、二条城会見があった1611年に加藤清正、1613年に池田輝政と浅野幸長、冬の陣の年である1614年に前田利長が死去している。
結果、秀吉に直接の恩義を感じる第一世代の大名は、福島正則、加藤嘉明くらいしかいなかった。藤堂高虎は主君だった大和大納言家の廃絶について秀吉に不満を持っていたし、蜂須賀家政、黒田長政は第二世代である。
大大名が一人でも公然と反抗したら雪崩が起きかねないから家康も綱渡りを強いられたが、福島正則と加藤嘉明だけだから、彼らを江戸に幽閉し、冬の陣に参加させないだけで済んだ。
それでも、福島正則は大坂にある兵糧を事実上、大坂方に提供などしたが、家康はあえて黙認した。逆に、前哨戦で最初に火ぶたを切る役割は、蜂須賀至鎮にやらせた。祖父の正勝が秀吉の筆頭家老だった蜂須賀が徳川についたことで、ほかの旧臣も踏ん切りがついた。
蜂須賀は戦後、淡路一国を加増されたのだから、この裏切りをいかに家康が評価したかが分かる。
逆に、前田利長は、秀頼のおもり役だったはずだから、大坂方の誘いに「隠居である羽柴肥前守利長は豊臣の味方だが、現藩主である松平筑前守利常は徳川」などといって、自殺同然の死を迎えた。さすがに、そうでもしないと、格好悪かったのである。
加藤清正も含め、この家康にとって「タイミングの良すぎる死期」は、暗殺でなかったとは断言できない。
それでも、家康も大名たちも、大坂方の勝利があり得ないとは思っていなかった。だから、毛利や細川のように一族の有力者が大坂方に出奔することを止めなかった、ないし、リスク分散でひそかに援助した大名もあった。
まして、家康が死んだら、豊臣秀頼のほうが官位も徳川秀忠より上なのであるから、豊臣に傾く大名もいたはずで、家康が方広寺の鐘銘を口実にするという姑息な手段に訴えてでも開戦したのには理由があった。