家康はキリシタンと豊臣家が手を結ぶことも警戒し、弾圧を本格化させた。また、大久保彦左衛門の叔父で、秀忠側近の小田原城主だった忠隣が、1614年(冬の陣の年)の1月に改易された。佐渡奉行などを歴任した大久保長安が、死後に不正蓄財で告発されたことも関係していたようだが、豊臣方との内通も理由として挙げられた。
江との子である千姫を秀頼の元に送り込んだ秀忠には、豊臣との融和に傾きたい気持ちもあった。その意を呈してか、忠隣は大坂方に対してやや融和的であったとか、無理難題を押しつけるようなやり方に賛成しなかった、ということはありそうだ。
加賀にはキリシタン大名の高山右近が領地を放棄された後、寄寓していたのだが、1614年10月にフィリピンのルソン島へ追放された。
浅井三姉妹と家康の
戦いだった大坂の陣
大坂方との外交交渉のなかで家康が最も恐れたのは、徳川と豊臣が両立できるような、いい知恵が出され、それに支持が集まることだった。だから、そういう知恵が出る余地をできるだけ最小化した。
ことに心配だったのは、浅井三姉妹の動きであり、それに将軍秀忠が同調することだった。その意味で、この戦いは浅井三姉妹と家康の戦いだったといえる。
大坂冬の陣が始まる前の春に、北政所寧々の秘書役だった孝蔵主が、江戸に移ってしまったことは、すでに紹介したことがある(https://diamond.jp/articles/-/331344)。秀吉のもとで女奉行といってよいほどの辣腕(らつわん)ぶりを発揮する、外交交渉の達人だった。
その経緯は謎なのだが、彼女がいなくなったことで、寧々は無力化した。交能力抜群の孝蔵主が寧々の周りにいれば、寧々が余計な動きをするのではないかと心配した家康が、強引になのか、好条件で釣ったのか、あるいは、「東西の架け橋になってくれ」と甘言を弄(ろう)したのかは分からないが、京都から引き離したのである。
このために、寧々は大坂冬の陣や夏の陣の間、指をくわえて傍観するしかなかった。「どうする家康」では、寧々は家康と関係良好に描かれていた。だが、関ヶ原の戦いでは西軍を支援していたし、家康も寧々の実家を改易し、豊国神社を破却するなど、ひどい扱いをしたし、大坂の陣を巡る交渉からも排除したので、史実とは程遠い。
夏の陣が終わった後、寧々が伊達政宗に「なんとも申し上げようもありません」と書いた手紙があるのは、そうした無力感がゆえであろう。
豊臣にとって不運は、秀頼と千姫に子どもができなかったことだ。1608年に秀頼は国松という男子をもうけたが、すぐに茶々の妹の初が若狭に引き取り、翌年には後の天秀尼が生まれているが、これも手元には置かなかったようだ。
側室を置いたのではなく、秀頼に手近な女性と性体験をさせた結果、これらの子たちは生まれたのであろう。その後、新しく子どもができた形跡はないから、秀頼は千姫が成人したのを見計らって子作りに励んでいたのだろう。
1612年に大坂城で、鬢そろえを千姫が行い、秀頼が手伝っているのを侍女が目撃しているが、千姫と秀頼が名実共に夫婦になったのが、このときだと思う。
ともかく、千姫が豊臣家の若君を産めば、豊臣と徳川のみならず、さらには織田の家までがひとつの家のようになれたわけで、互いのメンツをつぶさずに共存することが可能だっただろう。
生まれた子が男の子なら、天下はその子が、徳川が派遣した奉行に指図されつつでも治め、東日本は徳川の独立王国とする。また、女の子なら、家光と結婚させることもあり得る話だった。織田は、茶々と江がそれぞれ秀頼と家光の母だし、秀忠と江の次男である忠長の正室は、信雄の孫娘(信良の娘)が後になったことで、織田のメンツをつぶさずに豊臣と徳川は織田家と丸く収まった。
古河公方と北条氏、京極氏と浅井氏、土佐一条家と長宗我部氏、龍造寺氏と鍋島氏など、この頃は新旧支配者が共存した例もいろいろとあった。