大坂方に無理難題を
突き付けた家康

 織田一族は、茶々の身内として重きをなしていたが、冬の陣の直前の7月に、長老で信長やお市の同母兄妹らしい信包が急死した(暗殺の可能性もある)。9月には片桐且元の追放の流れで、信雄も大坂城を退去。そして、信長の庶弟である有楽斎長益も夏の陣を前にして大坂城を退去した。

 彼らは家康と常に連絡を取っていたが、スパイだったとも言い切れない。彼らは、豊臣家の元にいたほうが優遇を受けられる立場だ。信雄については、「総大将を自分がやる」といったとか、逆に、総大将の打診に怖くなって逃げ出したとか諸説あるが、いずれにせよ、勝てそうであれば総大将になるのは悪い話でなかった。

 家康にとって、もっと厄介だったのは後陽成上皇である。なにしろ豊臣家に最も好感を持っていたのは、上皇なのである。上皇は、冬の陣では、広橋兼勝と三条西実条を派遣して仲裁しようとしたが、家康は気遣い無用として相手にしなかった。

 家康は、信長の弟である有楽斎と浅井三姉妹の次女である初(京極高次夫人)を、茶々の代理として徳川と交渉をするように仕向けた。一方、秀忠夫人で浅井三姉妹の末娘である江は、江戸に留め置かれた。「どうする家康」では大坂での交渉に参加して茶々を説得していたが、実際は徹底的に交渉から排除された。

 しかも家康は、一見すると大坂方にとって有利な条件を出した。京極忠高(高次の庶子)の陣で行われた交渉で「茶々を人質としない」「秀頼の身の安全を保証し、本領を安堵する」「城中の浪人は不問」といったのだ。ただし、大坂方は浪人に知行を与えることを願ったが、これは拒否された。

 本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めることは、当時の和平では常識的だった。だが、大坂方は、惣堀は徳川方が埋めるが、外堀は自分たちで埋めるつもりだった。つまり、完全破壊までは行わないと考えていた。

 ところが家康は、大坂方の工事を手伝うと称して、外堀まで埋めた。しかも、初の義理の子である京極忠高に、その工事をやらせた。

 新年になると、家康は浪人たちを許すことは承知するが、城内に置くのは承知しないという無理難題を突き付けた。こうなると、たとえ、茶々に受け入れるのは仕方ないという気持ちがあっても、浪人をどう退去させるかは問題だし、秀頼自身も、あまりにも不名誉な屈服をすることは嫌がったようだ。関ヶ原の戦いの時の織田秀信(三法師)と同じように、幼少の頃から父や祖父の偉大さを吹き込まれて育った若者は、それほど現実主義者には育たないものだ。

 茶々にすれば、それなりのメンツさえ立つのならば、秀頼の身の安全が一番大事だったろうが、秀頼自身の誇りが妥協の邪魔になった。

 家康は、いったん駿府に戻ったが、名古屋の義直と浅野幸長の娘である春姫の結婚を口実に、事実上の出陣をした。この婚儀は華やかなもので、ど派手で有名な名古屋の結婚の始まりとの説もある。

 ここまでなんとか、和平の道を探っていた有楽斎は見切りをつけて城外に出たが、初は姉の茶々を見捨てられず、最後まで一緒にいることにした。初と一緒に二条城に家康を訪ねた老臣の青木一重は、そのまま留め置かれた。孝蔵主のときもそうだが、家康は交渉力のある人が大坂方にいることを嫌がったのである。

 夏の陣の戦いでは、真田幸村の奮戦などはあったが、家康を戦死させない限り、形勢逆転はできなかった。

 大野治長は、茶々と秀頼の助命嘆願の交渉のために千姫を城外に脱出させた。千姫は祖父の家康と父の秀忠に助命を願ったが、家康は「将軍さま(秀忠)次第」といい、また、秀忠も父の意をくんで受け入れなかったという。

 茶々と秀頼は、山里丸の糒櫓に隠れたが、片桐且元がその場所を見つけ、井伊直孝から大野治長に助命はかなわないことを告げた。この役目を、家康は藤堂高虎に命じたが、浅井旧臣で長政から姉川合戦で感状をもらったこともある高虎は固辞した。

 最期を共にした者には、乳母の大蔵卿局や長政の従姉妹に当たる饗庭局など、浅井家ゆかりの何人かがいた。浅井ゆかりの者が、家康の手のひらの上で踊らされて敵と味方に分かれ、とどめを打たされた。

 なお、且元は、4万石に加増されたが、その20日後に死んだ。秀頼助命のために徳川に協力したつもりが裏切られて死ぬしかなかったと、当時はうわさされた。

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)