これもまた、「容姿の似た女」と同様、当時の習慣や信条を考えてみると、おぼろげながら、その意味が浮き彫りになってきます。

 それは、仏教の影響です。

 当時の貴族にとって、仏教は身近な宗教であり、生活習慣の基本ともなる教えでした。

『源氏物語』の末摘花の長い鼻は、“普賢菩薩の乗物”と形容されています。言うまでもなく象のことで、当時の読者にとっては、それが分かりやすい形容だったのです。

 源氏が玉鬘を相手に展開する物語論におけるたとえ話でも、“方便”といった仏教用語が使われています。たとえ話というのは、難しいことを分かるように説明する際、使われるもので、それだけ仏教用語が読者にとって身近だったわけです。

 この仏教には、「代受苦」という概念があります。仏が人間の苦悩を代わりに引き受けてくれるという発想で、「身代わり地蔵」などがその系譜上にあります。

『源氏物語』の身代わり女は、間違いなくここから発想を得ているでしょう。

 ここで疑問なのは、『源氏物語』で誰かの「身代わり」とされた女たちは、誰かの代わりに苦を受けているのか、ということです。

 亡き桐壺更衣に似ているからと桐壺帝に入内した藤壺は、その身分の高さも手伝って、更衣と違って人にも侮られず、ミカドも存分に厚遇することができました。苦なんて受けてないじゃないか、と思われます。ただ、ミカドの皇子の源氏と関係し、不義の子を生むことで苦悩し、源氏の夢枕に立った姿によれば、死後は地獄の責め苦を受けている様子でした。

 この藤壺の代わりに、源氏の愛妻となった紫の上は、ナンバーワンの妻として君臨する。しかし中年以降、女三の宮という若く高貴な女が正妻として乗り込んでくることで、ストレスによって胸の病を発症し、念願の出家もできぬまま死んでしまいます。