東日本大震災では、震災当日に
道路復旧計画が決まっていた
元旦の日本を揺るがした能登半島大地震。岸田首相は「被災者の救命・救助はまさに時間との戦いだ。人命第一の方針のもとに救出に全力をあげる」と宣言し、そのために救助犬を増やすことや道路の復旧を急ぐことなどを指示したと、いかにも政府が全力をあげているような発言を繰り返しています。
しかしこの対応、すでに2011年の東日本大震災時と比べて大幅に遅れているのです。1月4日の時点で、能登半島の道路は寸断されており、各地で渋滞が起こっています。
東日本大震災ではどうだったのでしょうか。実は当時、『月刊文春』で取材していた私は、国土交通省の素早い対応を知りました。震災が起こった11日の翌日には、被災地に向けて11ルートの道路がすでに開かれ、被災地救援物資と機材のみの通過が許され、すでに復興への戦力がどんどん現場に入りつつありました。
現地の指揮官にあたる徳山日出男・東北地方整備局長(のち、国土交通省次官)が、震災直後に、人命救助と捜索のための道路を開くことを決断。津波のために松島空港が全滅。津波がくる寸前に日本で唯一飛ばすことができた国土交通省のヘリの情報から、太平洋岸の被害が激しいと判断し、その日のうちに復興計画の第一弾を作成していたのです。
海寄りの道路を諦め、東北の中心部の無事な道路から海岸に向けて、「くしの歯」のような形で道路を啓開することを計画し、あの揺れに揺れている震災当日に、地元建設業者と連絡をとり、道路啓開部隊を52チームに細かく分けて結成しました。
これが震災当日の話なのです。そして、道路はガタガタでもいいから、とにかく通れるようにしようと奮闘しました。国道事務所の職員、地元建設会社のパワーショベルと操作員、そして土嚢やアスファルトの合同チームが協力して、遺体までかき分けるような作業を重ねて、海岸にむけて前進。地震発生4日目までにさらに40ルートが確保されていました。
地震発生から4日目ということは、今回の能登半島地震でいえば、1月4日までにこうした体制を整えていたことになります。