さて、そのアンバランスさにメスが入りかけた本件だが、私見では今しばらくこのアンバランスさが続きそうな気がしている。
先に紹介したビッグネーム3名は、「松本氏の遊び方はまずかった」としつつも、”女生との遊び”自体を否定はしなかった。同調する世論も、「芸人さんは特殊だし、遊びまくることもあるだろう」「奥さん次第。第三者は見守るべき」という具合に、今回の性加害疑惑が取り沙汰される前の「”遊び”にとやかく口を挟むのは野暮」という従来の流れに復帰してきた感がある。
だが同時に、これが「変化をする前に一旦従来通りの型に落ち着いておこう」とする大衆心理である可能性も捨て切れないのである。というのも、松本人志氏の性加害疑惑をきっかけに持ち上がった「男の”遊び”はいかがなものか」という議論ではあるが、あくまで問題の中心テーマではないからだ。
それより他に、優先的に議論すべきテーマは山積している。つまり、松本人志氏の性加害疑惑は話題性が大きすぎて、「男の”遊び”の是非」を落ち着いて議論する機会には適していないようなのだ。ならば急に価値観の変化を求めず、当面は従来の型にハマって安定を取り戻したいと思う心理はよく理解できる。
自身が”遊んで”きた梅沢富美男氏が「”遊ぶ”時代ではなくなってきた」と指摘している通り、風向きが変わってきていることは確かであろう。今回、議論が深まらなかったとはいえ、「男の”遊び”の是非」が一瞬でも注目されたこと自体がその証左である。
「遊び」そのものを容認する
発言が聞こえない若い世代
一方、昭和的価値観の影響が少ない若い世代からは、”遊び”そのものを容認する発言があまり聞かれない点も興味深い。個人を見てみればがっつり”遊んで”いる若者や、その生き方に持論や矜持を持つ若者もいるのだが、それが「世代のトレンドでない」と感じるのは、実際そうかもしれないし、世代間の価値観の違いを区別したがる筆者が先入観で先走っているからかもしれない。ここは筆者にとって、もう少し見極める時間が必要になりそうである。
石田純一氏はかつて「不倫は文化」報道で、仕事が激減するほど世間のひんしゅくを買ったが(正確には本人は「不倫は文化」とは発言していない)、これは「男性という生き物への制裁」というより、石田氏個人に対して行われた趣きが強かった。
さて、では今後男性の”遊び”はどう扱われていくのか。その変化へのささやかな楔が打たれたのが、今回の一連の流れの中に確認されたように思われた。