西郷隆盛像Photo:PIXTA

幕末に父を斬殺された遺族たちは、中世以来の武士の慣行にならい、仇討ちに奔走。維新後の明治4年に本懐を果たした。庶民も役人も彼らのサムライぶりを褒め称えたが、明治に制定された刑法によれば、ただの大量殺人でしかない。死刑を待つ身となった彼らが頼った相手は、西郷隆盛だった。※本稿は、濱田浩一郎『仇討ちはいかに禁止されたか? 「日本最後の仇討ち」の実像』(星海社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

仇敵を討ち取った村上兄弟は
直ちに現地の五條県に自首

 明治4年(1871年)2月30日、村上兄弟(尊攘派の下級武士に暗殺された赤穂藩の参政・村上真輔の息子たち。父の仇を討つべく奔走した)は、ついに、父兄の仇敵6人を討ち取った。

 村上四郎(村上真輔の四男)たちの側には、仇討ちがあったことを聞きつけた人々が集まってきた。往来の人が集まる神谷宿からやって来た者が多かったようだが、人々は「実に目出度いことでございます」と言って親切に世話をしてくれたとのこと。

 仇敵6人を全て討ち取ったならば、早速、その場の役人を呼び寄せて、立ち会わせることに決めていたが、その役は、村上農夫也(村上真輔の三男)と村上行蔵(村上真輔の五男)が担うことになった。農夫也も負傷していたが、それはかすり傷程度のものだった。紀伊国内の旧高野山領を管轄している五條県に自首することにしたのだ。

 五條(奈良県五條市)に行く途中には、それまで宿泊していた旅館・中屋があった。農夫也と行蔵は中屋に立ち寄り、そこの女主人の老婆に「夜前はどうも御厄介になった。決して、貴方がたに迷惑をかける者ではないが、今朝、親の仇を討って本望を遂げたから、まぁ喜んでくれ」という旨を告げた。

 老婆は大変喜んで「それは実に目出度いことでございます。どうぞ、まぁ、お上り下さい」と言うと、2人を座敷に上げて、白木の三宝(供え物を載せる道具)に、土器(素焼きの陶器)と銚子(酒を杯につぐ器)を載せて、持って来てくれた。本懐を遂げた2人を祝おうという気持ちを行動で見せてくれたのであった。

 中屋の紹介により、2人は五條の常楽屋善兵衛という宿屋にまず赴く。その上で、五條県庁に出向き、自首に至った。

 五條県知事・鷲尾隆聚に、村上六郎(村上真輔の六男)・行蔵・四郎・農夫也の連名の自訴状(2月晦日付)が提出された。そこには仇敵「赤穂藩卒族 山下鋭三郎・西川邦治・吉田宗平・山本隆也・八木源左衛門・田川運六」の名が記され「此者共」は、赤穂藩において徒党を組み、文久2年(1862年)12月9日夜に、父・村上真輔を殺した「不倶戴天の仇敵」であると書かれている。また、それ以来、真輔は冤罪となったために、只管、その雪冤に尽力したことも述べられている。