ダイハツは、設立が1907年と日本の自動車メーカーで最も古い歴史を持つ。内燃機関の国産化を目指して発電や船舶、鉄道車両へと用途を広げ、30年にオート三輪「ダイハツ号」を発売し、自動車事業に参入した。57年に発売した軽オート三輪「ミゼット」は庶民の足として大ヒットした。

 トヨタとは67年に業務提携し、98年にトヨタが50%資本出資して子会社化している。今回の最も古く不正が認定された1989年以降、ダイハツの社長・会長はほぼトヨタから送り込まれてきた。

 それでもダイハツは、軽自動車でスズキを抜いてトップシェアを続けていたり、小型車ではトヨタ向けOEM供給をしたり、海外ではインドネシア、マレーシアに生産拠点を築き、東南アジア諸国連合(ASEAN)で独自のダイハツブランドを確立したりするなど、独自のポジションを築いてきた。

 だが、2016年7月27日にダイハツ工業は上場を廃止し、8月1日付でトヨタの完全子会社となった。この完全子会社化で、ダイハツはトヨタの小型車部門の担い手としての立ち位置がより明確化され、新興国向け小型車戦略も任されることになった。

「良品廉価な小型車づくりがトヨタに認められた」と筆者に語ってくれたのは、当時のダイハツ九州から本体のダイハツ社長に抜擢された、ダイハツプロパーの三井正則社長だった。トヨタ副社長からダイハツ会長に転じ「白水天皇」と呼ばれた実力者の白水宏典氏によって引き上げられた三井氏は、最終的にダイハツ会長としてトヨタの「新興国小型車カンパニー」を主導するまでに至り、ダイハツプロパーにとっての星だった。

 三井氏のセリフは、日本とアジアのA・Bセグメントでダイハツの設計、開発、調達、生産の力をトヨタが認めてくれたということだが、その喜びとは裏腹に、開発期間の過度な短縮などの要望が、現場では不正を積み重ねることになったのかもしれない。