ごんは、「ひとりぼっちの小ぎつね」です。もしかしたら親ぎつねは人間に撃たれてしまったのかもしれません。「子ぎつね」ではなく「小ぎつね」なのですが、少なくとも成熟した大人のきつねではないでしょう。自分のせいで、「うなぎが食べたいと思いながら死んだんだろう」と思い込んでしまうごんは、無垢で純朴な子ぎつねなのです。だからこそ、撃たれてしまう姿がいっそう哀れで胸に迫るのですね。
「つぐない」の物語なのか
「求愛」の物語なのか
「ごんぎつね」については、以前から、「つぐない」の物語なのか、「求愛」の物語なのか、という二つの読み方があります。
つまり、うなぎを盗んだつぐないに、栗やら松茸やらの秋の味覚をせっせと届けるごんの「罪の意識」を中心に読むのか、その奥にある、兵十に自分をわかってもらいたい、仲良くなりたい、という願望を「求愛」として捉えるのか。あなたはどちらでしょうか?
「求愛」説を唱えた岩沢文雄さんは、「作品『ごんぎつね』は、求愛のうただ。うたの美しさは、孤独な魂が愛を求めて奏でる、哀切のひびきの美しさだ」(『文学と教育その接点』鳩の森書房1978)と熱く主張しています。
その背景には、新美南吉の当時の恋愛体験があります。ごんぎつねが書かれたのは、南吉が弱冠18才の時。その頃の悩みに悩んでいた恋愛が反映されていると考えられているのです。南吉は詳細な日記を残しています。そこには、M子さんへの熱烈な思いと、いろいろな事情からそれが決して結ばれることのない恋愛であることが綴られています。
物語のラストに注目してください。「ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは」と兵十が声を掛けます。ごんは、最後に自分がプレゼントしていたことに気づいてもらうことができました。南吉の書いた草稿が残っていますが、そこでは「権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました」と書かれています。つまり、自分の存在に気づいてもらって、うれしい気持ちで死んでいくのです。