太宰治の故郷である青森県五所川原市(旧金木町)にある芦野公園に建てられた太宰の銅像 Photo:PIXTA
夏目漱石、太宰治、司馬遼太郎…日本の近代文学史に名を刻む作家が残した作品は、なぜ「名著」と呼ばれ、時代を越えて読み継がれてきたのでしょうか。その真価や歴史的意義を劇作家の平田オリザ氏が解説します。平田氏の新著『名著入門 日本近代文学50選』の中から、今回は太宰治の『津軽』について抜粋・再編集してご紹介します。(劇作家 平田オリザ)
『斜陽』『人間失格』の大ヒットで
太宰治は「退廃」の印象が強いが…
かつて太宰治は「青春のはしか」とも呼ばれ、思春期の文学少年・少女たちは、皆こぞって「太宰は自分だ」あるいは「これは自分のことが書いてある」と感じて傾倒した。「生れて、すみません」(『二十世紀旗手』)と恥じ入りながら、「撰ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり」(『葉』元はヴェルレエヌの詩)とうそぶく。そんな矛盾もまた、若者たちを惹き付けた。
太宰は戦後の無頼派の筆頭のように捉えられるが、実は戦前、戦中に素晴らしい作品を残している。一九四七年に『斜陽』が大ヒットし、その後の『人間失格』が彼の代名詞となってしまったために、デカダンス(退廃)の印象が強いが、大人の太宰ファンは、『津軽』を代表作にあげる人も多い。
『津軽』(角川文庫)太宰治(だざい・おさむ)【1909~48年】
書影:角川文庫
たしかに太宰は、二十代からパビナール(鎮痛剤)依存症となり乱れた生活を送っていたが、井伏鱒二の媒酌で結婚し、三十代に入ったあたりから生活も落ち着き秀作を連発するようになる。『女生徒』『新樹の言葉』『駈込み訴え』『走れメロス』、いずれも小説としての企みに満ち、それでいてみずみずしさを失わない傑作たちだ。
なかでも本作は、太宰の根底にある優しさとユーモアを余すところなく発揮している。
太宰が訪れたふるさと
『津軽』が描く切なく美しいシーン
刊行は一九四四年。戦局が厳しさを増す中で、太宰はふるさと津軽を訪ねる。そこで出会う多くの人々は、かつて太宰が育った家の使用人たちだった。その邂逅の一場面一場面は、どれをとっても切なく美しい。
戦争による窮乏が彼に、生涯で唯一の心身の健康をもたらしたという皮肉も、なんとなく太宰らしいではないか。
よく知られるように、太宰は津軽の地主の家に生まれた(一九〇九年)。私も五所川原市金木にある「斜陽館」を訪れたことがある。大きな家の玄関からすぐに土間になっていて、秋口になると、そこに小作人が米を運び込み検査を受ける。そのまま米は奥の土蔵に運ばれる。太宰はそんな風景を見て育った。
太宰は中学時代を過ごした青森市を皮切りに、まず津軽半島の東海岸を北上し竜飛岬へと至る。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互ひに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いているとき、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこにおいて諸君の路は全く尽きるのである。







