イスラエルにも同じことがいえる。
イランが反撃できない状況ならば、積極的に打って出て相手方の戦闘能力、とりわけ核実験施設を破壊したい。逆に、相手方が十分に力をつけたとしたならば、「やられる前にやる」必要がある。イスラエルもまた、「攻撃する」という選択を常に視野に入れている。
かくして、このゲームの構造のもとでは、お互いが相手を攻撃する動機が強く働く中で、いつ戦争が始まってもおかしくない状況にあることが分かる。戦争こそが、お互いが素直に自己利益を追求した結果として行き着くところ、「均衡」なのである。
「和平が最適だが、戦争が均衡」――お互いが最善と思って行動する結果が、双方に良からぬ結果をもたらす。こうした構造を、囚人のジレンマという。
かりそめの和平が、いかに不安定であるのか。中東の地では、あまりに安易に破滅的な選択肢が実行されてしまう理由がお分かりいただけたと思う。かの地では、相手国が弱体化するにせよ強大化するにせよ、自国の軍備を強め、戦争に向かう理由となるのである。
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改革するすべは一つ。このゲームの構造を変えるしかない。
相手を攻撃することが、自らの悲願達成になってしまうから、攻撃という選択が取られがちになるのだ。
ユダヤ、スンニ派、シーア派。それぞれが他の存在を許すことができたならば、中東に平和が訪れることになる。和平を均衡とするには、それ以外に方法はない。
大国がにらみを利かせるなどの一時的な抑止では、相手を攻撃するインセンティブは常にそこに存在したままだ。
理論的には、答えは実に明瞭だ。だが、それが実現する日が来ることは、果たしてあるのだろうか。