予想外の手を指された際、少ない時間で対応するのは難しい。「藤井さんが勝てない」。検討室では、そんな声が上がった。

 だが、藤井はこの窮地をあっさりと脱した。豊島が1時間39分考えて選んだ手順に対し、ほとんど時間を使わずに指し進める。最後は豊島の玉を詰まし上げて、122手で勝利した。

 豊島の誤算はどこにあったのか。改めて問うと、豊島は「相手の3二歩を見落とした」と明かした。

 つまり、「自分の玉は詰まない」と判断していた手順の中で、3二に歩を打たれて詰むのを見落としたのだ。豊島は実際は別の手順を選んだが、やはり即詰みに討ち取られた。

 藤井の3二歩の局面が現れるのは長考の局面から20手ほど先になる。ただ、その一手前までは何度も読み進めていただけに、無念の思いは消えない。「なぜ見落としたのかわかりません」

 裏を返せば、豊島が1時間半以上考えて正解を発見できないほど難しい局面だったとも言えるが、藤井はその読みのわずかなほころびを見逃さなかった。

 対局直後、藤井はこう語った。

「最高峰のタイトルなので光栄に思う。それに見合う実力をつけていければ」

 驚異的な勝ちっぷりとは裏腹に、その言葉はいつも通り謙虚だった。

藤井は心技体を常に最高水準で維持
史上最年少四冠からさらに高みを目指す

 心技体。勝負の世界を生きる者に求められる三つの力である。

 アスリートばかりでなく、棋士もどれか一つを欠けば一流たり得ないが、藤井はメンタル、テクニック、フィジカルの全てで常に最高の水準を維持し続けている。死闘の翌朝、彼の姿を見ながら再び思った。

 2021年11月14日午前9時半、山口県宇部市内のホテル。前日まで指された第34期竜王戦七番勝負第4局で豊島を破り、4連勝で竜王を奪取した藤井は一夜明け会見に出席した。

 超難解な最終盤で互いに死力を尽くした名局を戦い終えた前夜は午前2時まで眠れなかったと明かしたが、朝を迎えた顔に疲労の色は一切なかった。大きなタイトルを得た充足による弛緩の影も。

「まだまだ実感がないところではあるんですけど、先程、初めて竜王という肩書の色紙を書いたりして、実感する場面は増えていくのかなと思います」

 手にした色紙には、力強い筆遣いで「昇龍」の文字がある。

「竜王戦だからということもありますが、竜が空に勢い良く昇っていく様ということで、自分も上を目指していけるように、という意味を込めました」