「サヴァイブ」。この言葉は、いつからか「自分だけは生き残る」というニュアンスが強くなり、生きづらさや世知辛さを感じている人も多いだろう。一方、深作欣二映画が描く「生き残る」には、現在と異なるニュアンスが読み取れるという。本稿は、飯田朔『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
ヒリヒリした人生観を示す
「生き残る」という言葉
「サヴァイヴ」という言葉を意識したことはあるだろうか。
この言葉は、元々英語では「生き残る」という意味なのだけれど、いつからか日本社会の世知辛さを象徴するひとつの用語として、時々使われるのを目にするようになった。
ぼくは、この言葉には前から大きな違和感を持っていた。理屈はともかく、その内容には、どことなくいじわるい、マッチョな響きがあると思えたからだ。
ぼくはある大学の日本語教師養成のための公開講座に通い始めた。講座自体はとても面白く、2020年の3月に無事修了できたのだけれど、「おや」と思ったのは、代わる代わる講座で話してくれる研究者や教育の専門家の人たちの口から、「~をできないとこの業界では生き残れない」「生き残るためには~」などといった言葉が出てきたことだった。
異文化コミュニケーションといった分野に通じる、リベラルな人たちの口からこうもスルリと、自然に「生き残る」という言葉が出てくるとはなあ、と驚いた。
いまこうした「生き残る」という言葉にあらわされた、ヒリヒリした人生観は、無意識的な形でぼくの前後の世代、20代から40代くらいの人たちには広まっている気がする。
ノンビリ生きたくても陥る
「サヴァイヴ」の悪循環
東京で暮らしているとひきこもりやニート、ひどい職場で働かされた人、マイノリティ的な事情を持つ人など、いまの日本で肩身の狭い思いをさせられている人がかなりの割合でいると感じる。だが、そんな人たちの中にさえ、この「サヴァイヴ」的な考え方がかなりの程度浸透していて、多くの問題が引き起こされている。
「サヴァイヴ」の問題点は、「社会のここがおかしい」と気がついた人が、「じゃその問題をどう解決していくか」という方向に向かわずに、結局「どう能力をつけて他人に勝つか」という元々自分が嫌な目にあった方向に回収されていく、一種の悪循環を生み出すことにあると思う。
ノンビリただ普通に生きたい、そんな風に構えていても、東京に戻るとかなりの頻度でこの「サヴァイヴ」的な価値観と対面せざるを得ない。そんなことが思えモヤモヤしていると、なぜか、もう一度あれが見たいなあ、という映画がひとつ出てきた。それは、深作欣二が監督した『バトル・ロワイアル』(2000年)。