夢をあきらめるのはダメですか?『桐島、部活やめるってよ』が描く「前向きなあきらめ」とは写真はイメージです Photo:PIXTA

追いかけてきた「夢」や「憧れ」、何かを「好き」だと思う感情から身を離すことができないと感じるとき、人は自身の「おりられなさ」とどう向き合えばいいのだろうか。「おりられなさ」の感覚を直木賞作家の朝井リョウの作品を通して考える。本稿は、飯田朔『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

「おりられなさ」を描く
直木賞作家・朝井リョウ

 追いかけてきた「夢」や「憧れ」、自分が通う学校や職場、社会に漂う風潮、何かを「好き」だと思う感情、そういった諸々から身を離すことができないと感じるとき、人はその自分自身の「おりられなさ」とどう向き合えばいいのだろう。

「おりられなさ」の感覚を、小説家の朝井リョウの作品を通して考えてみたい。

 朝井リョウは、1989年(平成元年)生まれで、戦後最年少で、また平成生まれとしては初めて直木賞を受賞した作家である。デビュー作『桐島、部活やめるってよ』(以下『桐島』)でスクールカーストと高校生を描き、直木賞受賞作の『何者』では大学生の就職活動やSNSをテーマとするなど、若者を取り巻くテーマやモチーフを青春劇などのジャンルを通して描いてきた。

 今回、朝井の小説を取り上げるのは、彼の作品の中に、「おりる」という感覚と、またそれとは反対の「おりられない」という感覚の両方に近い要素を感じさせられることがあり、とくに後者について他の作家の小説や映画作品には見られない特色があると思えたからだ。

 朝井は、メディアなどで取り上げられるとき、若者を描く若者作家、のように捉えられてきた面がある。また読者には、作品の中で、登場人物たちの他者に対する観察や辛辣な批評が描かれたり、読者の認識を揺るがす「オチ」が最後に用意されたりする面から、ある意味でキツい物語を書く作家として見られてきた部分もあるように思う。

 けれども、ぼく自身は、朝井リョウをそういった一般的なイメージと重ねつつも、あるテーマを繰り返し描いてきた作家として心にとどめてきた。そのテーマとは、「あきらめ」である。

「あきらめ」のテーマは、ひとつには、人が自分が追ってきた夢をあきらめる、という物語の形で描かれる。この場合の「あきらめ」とは、主人公が自分が無理をして追いかけてきた「夢」や「理想」をあきらめることであり、つまり、他者から言われたり、もしくは自分でそう思い込んだりする中で追いかけてきた「理想」から自分を解き放つ物語として描かれている。