深作作品から見える
死が確定した「限定された生」

『バトル』が再び気にかかったのは、そこで描かれる若者同士の殺し合いに、いまの社会の空気とは違う、何かいい意味で「後ろ向き」な姿勢があると感じられたからだ。深作欣二の映画には、登場人物の言葉や表情を追うこととは別に、ある人物が死ぬまでの数秒間、数分間を丹念に描くという特徴があり、それが『バトル』では、中学生たちの言葉や表情を追う演出とあいまって、この映画の独特な空気感を作り上げている。

『仁義なき戦い』などの往年の深作のアクション映画でも、ヤクザのキャラクターたちは銃や刀をまるでこぶしで相手と殴り合うときのように、近距離で狙いもろくにつけず、何度も撃ちまくったり、切りつけたりする。それでいて、撃たれ、切られた方もすぐには死なない。そして、路上や畳の上で苦しそうに死ぬまでのわずかな過程がカメラに映される。

 ぼくは、こうした「死んでいく人を丹念に描く」ことを、ある人物の死が確定した後の「残りの生」を描くという深作独特の描写と捉えてみると、それはそれで面白い気がする。

 これをかりに「限定された生」を描く手法と名付けてみよう。

『バトル』に見られる、死んでいく中学生たちの表情や言葉を追う演出は、致命傷を負い、あと数分、数秒で死んでしまう人物のもがき、「限定された生」を描くというあり方と同じ部分がある気がする。時間の差はあれど、どちらももうすぐ死が訪れる人物に残された、わずかな生を描く演出だからだ。

 このあたりから、ぼくには、『バトル』で描かれる「サヴァイヴ」が、よく見聞きするいまの「サヴァイヴ」的な考え方とは、何か大きく違うものがある、という感触が得られた。

 いまの「サヴァイヴ」の考え方は、自分だけは生き残れ、と人に呼びかけるものであり、言ってみれば「前」へ、「未来」へ目を向けた思考だと思うけれど、一方深作の『バトル』では、死んだ人たちの方を振り返れ、と「過去」の方を向いていて、これがぼくがこの映画には「後ろ向き」なものがあると感じる理由なのである。

年長世代が若者を搾取する構造
深作欣二による問題提起

 深作の「サヴァイヴ」についてもうひとつ重要と思える点は、つねに金や権力を握り、立場や主張をコロコロ変えて生き延びる年長世代の「大人」たちが若者を利用し、殺し合わせる、という世代間対立の要素が含まれていることだ。