これと似た展開は、『仁義なき戦い』の1作目にもあり、若者たちを利用して殺し合わせる組長の山守義雄(金子信雄)に対して、「したいことが自由にできる組」を作ろうと独立する坂井鉄也(松方弘樹)という若いヤクザが勢力を急拡大するのだが、結局坂井は老獪な山守に殺されてしまう。

 坂井鉄也のような「やりたいことをやろう」という戦後志向の若者たちがなぜかうまくいかない姿が描かれることからは、深作が語る戦後への違和感とは、戦争の記憶を引きずる世代だけが持つ違和感ではなく、戦後に生まれた人たちにまでつながるものであったと受け取れる気がした。

 深作が戦後に対して抱いた違和感をぼくなりにかみくだくと、それは、そもそも戦後社会は、個人がやりたいことをやろう、自由にやろうとしても、本当の意味では叶わない空間なんじゃないか、結局立場や主張をコロコロ変え、時代の変化に順応し、若者たちを利用する老人たちが金や権力を握って勝利する、その状況は戦時中とまったく変わってないじゃないか、と、こういう問題提起を含む感覚だったのだと思える。

 深作映画の中で「サヴァイヴ」が生じる要因としての「時代・社会の変化」が、戦後への違和感に根差したものだと考えると、深作にとって「サヴァイヴ」とは、昔から存在した根が深い問題として捉えられていたんじゃないか、と思えた。

 なぜ『バトル』で「サヴァイヴ」を「後ろ向き」に描く姿勢があるかといえば、それは、「サヴァイヴ」が以前から繰り返されてきた問題であり、すでにその中で多くの人がつぶされている、だから自分だけは生き残る、ではなく、死んでしまった、もしくは自分が殺してしまった人たちのことを振り返らなければ、という考えがあったのだと思う。

戦後につぶされた可能性と
生き残らなかった者への鎮魂歌

『バトル』では、死んでいく者たちの表情や言葉、「限定された生」、そういった要素に目を向ける視線があった。

 この映画には、日本の戦後というこれまでの時代の中で「不適応」とされた人物たち、もしくは、戦後という時代につぶされていったいろいろな可能性、そうした者たちへの鎮魂歌としての側面があると同時に、じつはそのようなつぶされた可能性たちは、まだどこかに散らばってかすかに呼吸を続けているんじゃないか、という「サヴァイヴのその後」に目を向ける視点があるような気がした。