「サヴァイヴ」で敗れ、「死んだ」人たちの表情や言葉、最期の瞬間に見せた生の感覚は、本人たちが「死んだ」ことになった後も、どこかに燃え残っている、という感触がある。

 そう考えたとき、ぼくはシリーズ3作目『仁義なき戦い 代理戦争』(1973年)の最後の場面が頭に浮かんだ。この映画の終盤、主人公広能の組の若い組員倉元猛(渡瀬恒彦)が兄貴分にだまされ、敵の返り討ちにあって命を落とす。その葬式で広能昌三(菅原文太)が倉元の骨壺を運んでいるとき敵から襲撃を受け、路上に遺骨が散らばってしまう。組員たちが骨を拾おうとすると、その骨にはまだものすごい熱がこもっていてさわれない。広能は、熱がくすぶる遺骨をこぶしでぎゅっと握りしめ、苦々しい表情を浮かべる。

『バトル』の「サヴァイヴ」観から見えるのは、この倉元の遺骨にくすぶっている熱の感覚のようなものだ。「サヴァイヴ」で敗れ、死んだことにされた者たちは、どこか死にきっていない。そこにはまだ「サヴァイヴ」の構造そのものへ刃を向ける、生き残らなかった者たちの持つ可能性がねむっているんじゃないか、そういう直感がぼくにはある。

――では、これまでの「サヴァイヴ」的な考え方の中で排除され、「死んだ」ことにされた者たちは、その後どうなったのか、それらのつぶされたさまざまな可能性は、いまの社会でどのように「燃え残っている」と言えるのか。ぼくはこうしたことを掘り下げる中で、「サヴァイヴ」に正面からぶつかる別のものの考え方として、「生き直す」という言い方が出てくるんじゃないか、といま思っている。