「あきらめ」に到達するまでの
「おりられない」過程が魅力

 このようなタイプのあきらめは、その後2作目の『チア男子!!』や『世にも奇妙な君物語』などでも描かれている。これらもまた、それまでマイナスと捉えていた自分自身をプラスに捉え直すところから新たな出発を迎える人物が主人公となっており、ある意味で、『チア男子!!』は『桐島』に登場した風助の「その後」を描く作品であるようにも感じられる。

 これらの作品に見られる、ふたつめの「あきらめ」を、そのままの呼び方になるが、「前向きなあきらめ」と呼ぶことにしたい。

 ぼくは、この『桐島』やのちの『何者』といった作品を読んだとき、結末で登場人物たちがあきらめることで逆にようやく前を向ける、という、ホッと一息つける感じが印象に残った。こうした主人公らの最後の気づきは、他者から押しつけられたり、自分で設定した夢や理想といったものから脱する、という意味で、あきらめでありながら、前向きさを持っている。

 このような前向きな「あきらめ」または「おりる」感覚は、朝井だけでなく、同時代の小説や映画にもある程度共有されてきたものであるようにも感じられる。

 こうした作品群は、理想との距離感、時代や自分自身に対する諦観、自分が抱える葛藤とどう折り合いをつけるか、といった問題意識が共有されていると感じる。朝井の場合は、最後にホッと一息つくような「前向きなあきらめ」が描かれる点では他の作家の小説や映画と同じなのだが、むしろその「あきらめ」に到達するまでの「おりられない」過程の方に力が込められていて、より生々しく描かれているのである。

 このように考えているうちに、朝井の作品については、むしろ「あきらめ(きれなさ)」、言い換えれば「おりられなさ」の方に見るべきものがあるのではないか、と思えてきた。