ぼくには、このような「あきらめ」が、自分にとって負荷のようになってしまった「理想」から離脱するという形を取っている点に、いま日本社会の水面下で現れてきている、「おりる」思想と重なる部分があると感じられたのである。

 しかしその一方で、朝井の作品では「おりる」ことだけを美談として描くのではなく、それ以前の段階で人が遭遇する、夢や理想をあきらめきれないという葛藤、離脱の困難がしばしば描かれてきた。例えば、「理想」をあきらめきれない主人公の苛立ちや黒々とした感情が描かれるし、「夢」や「理想」とはまた違う言葉になるが、登場人物が、この「世界」からは誰もおりることはできない、と断言する描写が見られる。

 こういったあり方にぼくは、「おりる」感覚と「おりられない」感覚の両方があらわれ、ふたつの要素が拮抗、いやむしろ「おりられなさ」の方に軍配が上がっているような、インパクトを感じさせられた。

 こうした朝井作品の「おりられなさ」について考えることは、世界的にいま難民や移民など自分の国・社会を「おりる」動きに注目が集まり、国内でも「おりる」行動があらわれてきている中で、いわばそうした観点では語りきれない、もうひとつの見えづらい側面について考える助けになるのではないかと思える。

朝井リョウ作品の要となる
2種類の「あきらめ」

 まず、朝井リョウ作品での「あきらめ」の物語とはどのようなものなのか。朝井の作品では多くの場合、2種類の「あきらめ」が描かれてきたことに目を向けたい。

 少しややこしいのだが、朝井作品の主人公は、まず物語のはじめの段階ですでに夢をあきらめている、もしくはほぼあきらめかけている、という場合が多い。こうした序盤から抱えているタイプのあきらめがひとつめのものである。

 注意したいのは、このような「あきらめ」は、実際は彼らがいまだに夢をあきらめきれていないことの裏返しとして描かれている点であり、こういう主人公たちを通して、むしろあきらめることの困難がいつも描かれていると思える。このひとつめのあきらめは、「あきらめ(きれなさ)」とでも言うべきものだ。