「じいさん、あんた誰やねん?」
記者がざわめく新監督就任会見

 今シーズンが始まる前に、タイガースの絶対的功労者、松木謙治郎が監督の職を辞したいと言い出してからというもの、次のタイガース監督に誰を据えるのか、水面下で調査と交渉を行ってきた田中にとって、この報せは青天の霹靂以外のなにものでもなかった。

 その腹の内を推し量るように、野田が言葉を続ける。

「実はな、もう東京で何度か会うてきとるんや。この岸一郎くんはすごいで。元早稲田大のエースで、満鉄でも活躍した碩学の徒や。年は還暦近くだが、その分古今東西の野球理論に精通しとって、人格者としても間違いはあらへん。我がタイガースは主力選手が年を取り、投手陣の立て直しがカギや。プロ野球界にしがらみのない岸一郎くんなら、世代交代を遂行し、優勝への土台を作ってくれるやろ」

 田中は目の前が真っ暗になるような思いだった。早稲田?満鉄?聞いたこともないわ。ただこのオーナーが「決めた」と言っている以上、これは絶対命令である。特に電鉄の生え抜きではない田中に反論の余地なんて与えられるわけがなかった。せめて決定前に相談してくれたなら、絶対に岸なんてわけのわからんおっさんは監督候補の俎上にも載せんのに。

“これは、とんでもなく荒れるやろな……”

 ほぼ近い未来に確定的に起こるであろうイヤな予感に田中は暗澹たる気持ちになった。

 11月24日。大阪タイガース球団事務所には、ついにタイガースの新監督が発表されるとあって、各社の新聞記者がこぞって顔を揃えていた。

「えー、このたび、野田オーナーの強い推薦により新しく監督に就任した岸一郎監督をご紹介します」

 田中義一専務から発表された聞き慣れない新監督の名前に合わせ、ひとりの老人が記者団の前に現れて会釈する。記者たちが一斉にざわめき立つなか、思わず誰かが漏らした「キシ?誰やねん」というつぶやきに、田中はまったくだと思いつつ、野田オーナーから受けた通りの説明を始める。

「あー、岸監督はプロ野球こそ初めてとなりますが、早大出身、その後に満鉄で活躍されるなど、その野球理論、人格からいってもタイガースの監督に相応しい人物だと判断しております」

 ざわめきは一向に収まらなかった。