日本紙幣のイラスト写真はイメージです Photo:PIXTA

世界の先進国は、福祉国家になるにつれて、政府支出を増加させていった。それは日本も例外ではない。しかし、日本は「失われた30年」と呼ばれるほど経済が停滞しており、そのなかで社会保障費は大きな負担となっている。日本はなぜこのような状況に陥ってしまったのか。日本の戦後経済史から読み解いていこう。※本稿は、玉木俊明『戦争と財政の世界史: 成長の世界システムが終わるとき』(東洋経済新報社)の一部を抜粋・編集したものです。

戦後の軍事費減少により
経済成長の投資に注力できた日本

 日本の1945年8月の生産指数は(1935~37年を100とすると)8.7にすぎなかった。さらに、1934~36年の消費者物価指数を100とした場合、1949年第四半期の物価指数は247.8となり、インフレも激しかった。

 日本経済は、まさに壊滅的な状態であった。日本はこのような状況から立ち直り、高度経済成長を経験したのである。その大きなきっかけとなったのは、1950~1953年の朝鮮戦争特需であった。1949年の輸出額が5億1000万ドルであったのが、1956年には25億100万ドルと、約5倍になった。さらに鉱工業生産指数は、同時期に100から316に大きく増加した。

 この頃から、日本は世界史上稀に見るほどの高度経済成長を経験したのである。その大きな要因は、設備投資=第2次産業の進展と高い貯蓄率に求められよう。設備投資の費用を、海外から借りる必要はなく、国内の銀行からの借金(間接金融)で賄うことができたのである。

 さらに、アジア・太平洋戦争中と比較すると、軍事費がはるかに少なくて済んだことも重要であった。戦時中であれば軍事研究に投資されていたものが、経済成長のために投資されるようになった。1920年代に萌芽があった大衆消費社会誕生への胎動は、おそらく1950年代になって再び動き出したといえるだろう。

 輸出が拡大しただけではなく、日本国内においても、耐久消費財(洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ・クーラー・自動車など)の需要が増え、日本人の生活は豊かになっていった。

 戦後の日本は、軍事に対する投資が大きく減り、その分を経済成長のために投資することができた。石油価格は1970年頃まで1バレル(約160リットル)あたり2ドルを下回るほど安く、若い労働力が多かったので賃金は比較的少なくてすんだ。1ドル=360円の固定相場制のもと、日本の経済力が上昇して実質的には円がそれ以上に強くなっても、実質円安のため、輸出を増大させることができた。