もちろん、これらの母の言葉は、加害者が記憶を回想し、同書の著者である齊藤と書簡や面会を交わすなかで語られたものなので、一言一句正しいわけではないだろう。加害者のなかで改竄された言葉が存在する可能性も十二分にある。しかし、だとしても、「許さない」と述べた母の言葉は、彼女にとってそれだけ印象に残っていたのだ。

 また彼女は、「就職するにあたって親の許可はいらないはずだと思って家出した」が、「それもやはり許されなかった」と回想する。そして、母を殺害したことについても、やはり「母は私を許さないだろう」と述べる。

なぜ「母から許されたい」のか
母の言葉でつくられる娘の規範

 なぜ彼女はこれほどまでに、「母の許し」を気にするのか。

 彼女が公開した文書には、このように書かれている。「幼い頃から叩き込まれた教養や厳しかった躾に助けられております」と。つまり、母が娘を育てるにあたって授けた教育や習慣が、彼女自身を形づくっているということだ。たしかに、一般的に母は、娘にとってもっとも近しい、「規範」を与える存在である。

 規範とは何か。それは人間の欲望の方向性を決めたり、制限をかけたりするものである。

 具体的に書こう――このような言葉を、あなたも聞いたことがあるだろう。

「結婚したほうが幸せになれる」「女性は容姿端麗でなくてはいけない」「あなたの体型は、太ってはいけないが、痩せすぎもよくない」「学歴をつけて男性に負けない稼ぎを得られるようになれ」「資格を取って、子どもを産んだ後も働き続けられるようにすべき」「あなたは母が望むような幸せを手に入れて、早く母を幸せにしてくれ」「『女の幸せ』なんて、あなたは言わないで」

 このような言葉は、母から娘へ与えられてきた、ごくありふれた規範だ。そして娘は、そのような母の規範を守って生きる。なかには自分が母の規範を守って生きていることに気づかないほど、母の与えた価値規範を娘が内面化してしまっている場合も多いだろう。

 そして娘の欲望が、母の与えた「規範」から逸脱するとき――娘が自らの欲望を満たそうと行動を起こすとき、母の許しが必要になる。しかし母は往々にして、娘の「規範」からの逸脱を許さない。このプロセスを繰り返すうちに、やがて娘は母の規範の範囲内でのみ、欲望するようになる。