この事件の犯人女性と往復書簡を交わし、事件の背景に横たわる母娘の相克を明らかにした秀逸なノンフィクションが、2022年12月に刊行された『母という呪縛 娘という牢獄』(齊藤彩、講談社)である。

 同書の著者である元記者の齊藤は、犯人女性が母について綴った手記の「母の呪縛から逃れたいが為に、私は凶行に及びました」という部分に強く惹きつけられたと書いている。

 だが同じ手記を読んで、私がもっとも気になったのは、ここだった。

 私の行為は決して母から許されませんが、残りの人生をかけてお詫びをし続けます。
⿑藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』

 齊藤が注目した「呪縛から逃れたかった」という殺害の動機は、大変痛ましい内容であるが、理解はできる。

 一方で、自分で母を殺しておきながら、その行為を「母から許されない」と述べている点には、やや違和感を覚えはしないだろうか?

 もちろん、彼女の犯した殺人という罪は、許されるものではない。しかし彼女は、世間でもなく、道徳倫理でもなく、家族でもなく、「母」が許さないとわざわざ述べたのだ。

 この事件の背景にあるのは――最悪の事態に至ってしまった、極端な例ではあるにせよ――ごく凡庸で、一般的な、母娘問題そのものではないか。

 同書を読んだとき、私は心底そう感じたのだった。

「私の行為は決して母から許されません」
娘に植え付けられた強迫観念

 もし彼女が息子で、父を殺害していたとしたら。彼女(彼)は、「父から許されませんが」と述べていたのだろうか?この事件が母と娘の間で起こったからこそ、彼女は「私の行為は決して母から許されません」と述べるに至ったのではないか。

 そのような仮説をもって『母という呪縛 娘という牢獄』を読み返すと、母が娘に向かって「許さない」と述べる言葉がたしかに頻発する。

 たとえば、同書には母と娘のLINEの内容が掲載されているが、そのなかで母は何度も「許しません」という言葉を使う。助産師コースに進む試験に落ちたことや、医学科に入学できないこと、看護学科に入学すること、オープン模試を友達と一緒に受けに行くこと、夜8時の門限を破ってしまったこと、就職すること。そのいずれに対しても、母は「許さない」と述べた、と綴られている。