イスラムという宗教は、人間の内面より外面に重きを置いている

『イランの地下世界』(若宮總 著、KADOKAWA)『イランの地下世界』(若宮總 著、角川新書)

 話を元に戻そう。

「競争と比較の原理」とリア充アピールに嫌気が差していたレイラさん。あるとき彼女は考えた。「どうして私たちの社会は、人間の内面を評価しないのだろう?」と。そこでレイラさんがたどり着いたひとつの結論が、イスラムであった。

「イスラムという宗教は、人間の内面よりも外面に重きを置いていると思うの。このイラン社会と同じようにね」

 信者はそれらを守ろうと努力することになるが、それはややもすれば「守ってさえいればよい」という態度にもつながる。

 そして、ちょうど現代のスカーフがその最たる例であるように、信仰心という内面よりも、とりあえず外面、つまり体裁を整えることが優先される風潮を生んでしまう、とレイラさんは言う。当然そこでは、体裁を整えた者が、体裁を整えていない者よりも優位に立つ。

 あるいは、何度もメッカ巡礼に行ったお金持ちは、お金がなくて一度もメッカに行ったことがない貧乏人よりも偉いことになる。たとえ後者のほうが信仰心において勝っていても、である。

 信者の生活を拘束するイスラムは、そこからさらに共同体や国家のルール、すなわち法体系をも発展させることになった。イスラム法学には、コーランの言語であるアラビア語の能力が必須である。そのため、アラビア語ができる者は、できない者よりも優位に立つことになり、ここでもまた序列が生まれてしまう。

 レイラさんは言う。

「結局ね、イスラムが私たちの一挙手一投足にまで口を出す宗教として成立したこと。それが、そもそもの過ちだったのよ。もしこの宗教が人間の心だけを問題にしていれば、今のように内面が軽視され、外面だけで人間が序列化されるような世の中にはなっていなかったと思うの」

 私はレイラさんの指摘は傾聴に値すると思っている。少なくとも、一人のムスリムとして生まれた女性がイスラムに見切りをつけるまでの思索の軌跡として、それは興味深いものではないだろうか。