イラン人の「リア充アピール」は日本人の比ではない

 一方、イスラムのより本質的な「欠陥」を指摘するのは、前回(https://diamond.jp/articles/-/348561)も紹介した30代の友人レイラさん(仮名)だ。

 彼女の一族は、近現代イランの著名な政治家や文化人を多く輩出してきた名家である。レイラさん自身も、豊富な知識と鋭い洞察力をあわせ持った才女で、私がイランで彼女から学んだことは数知れない。

 そんなレイラさんも、20代のころまでは、なかなか自分に自信を持つことができずにいたという。学校では、常に同級生との競争にさらされ、家に帰ってからも、親戚やほかの家庭の子どもたちと比較された。大学生になり、SNSが流行しはじめると、「競争と比較の原理」はレイラさんをさらに苦しめることになった。

 このように書くと、「そんなの日本でもよくある話じゃん」と思われるかもしれない。確かにそのとおりである。

 しかし、実はイラン人の「リア充アピール」は日本人の比ではない。現代のイラン社会で人物を評価する基準は、子どもならば学校の成績と習い事。大人になれば、学歴、収入、家、車、そして容姿と、相場が決まっている。SNSは、イラン人にとってそれらを見せびらかすための格好の場なのだ。

 そんな社会では「目に見えるもの」がすべてなので、じわじわとにじみ出る人徳とか、ちょっとはみ出した個性なんかは、どうでもよいことだ。

 そして、「嫉妬心から対抗意識を燃やすこと」を意味するペルシア語「チェシモ・ハム・チェシミー」ほど、イラン人の日常でよく使われる言葉はない。個人的には、この言葉こそイラン社会を理解するためのキーワードだと思っているくらいだが、これについては別項で詳述する。